ヘレンのノート版ACIM読書会

ヘレンのノート版ACIM読書会 20回目 所有を知らないまなざしへ アイデンティティのお引越し

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2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。

会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。

もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。

ヘレンのノート版ACIM読書会 これまでのタイトルの全て一覧できる目次のページはこちらからお入りください。

*今回使用したテキスト****

カメオエッセイ13 『時間は神が創造した」? ここに私の試訳があります

第二章 正しい防衛と恐れからの解放、第1節 所有の本当の意味 (青の本にはありません)、ここに私の試訳があります。

*予告編****

奇跡の原理がやっと終わって、
「正しい防衛とおそれからの解放」の
第1節、「所有 Possessionの本当の意味」に入ります。

神のもとへ戻る魅惑に抗うための抵抗として、
自己流の救済計画を「所有」という切り口から、
いくつかのタイプに分けて論じてるところです。
とても面白いところなのですが、青い本には、含まれていません。

難解なこともあり、ステップバイステップで進みましょう。
今回は、概略を説明するところまでいけたらって思ってます。

特に、なぜ、「所有」が問題になるか、深く体験し、理解し、ゆるす機会を持てたらって思っています。

予習したい方に


心が動揺した体験の記憶を、思い出せる限り、あげてみてください。
最近のことでもいいし、はっきり思い出せるものであれば、遠い昔の出来事でも構いません。
ノートに箇条書きにしてみましょう。
そして、そのそれぞれについて、以下のことが言えないかどうか、自問自答してみてください。



心の動揺になったエピソードはさまざま。

でも、みんな、何らかの形で、「所有」にまつわる態度がからんでいませんか?

まず、何かを期待して裏切られた、というパターンをとってないでしょうか?
知らず知らずのうちにであれ、そんなふうに何かを、期待する態度の中には、
人や状況を自分の思い通りの形におさめたいという思いがありますよね。
広い意味で「所有」しようとしていたって、言えるかもしれません。

たとえば、大切な食器を子供が壊したので、動揺する。怒る。食器の所有がからんでるだけでなく、それが、壊れずに今まで通りに、自分の自慢の食器としてそこにあること、前提にしていて、それが壊れたから動揺してるんですよね。

誰かに冷たくあしらわれた気がして動揺した場合。
その人に、「優しくして欲しかった」「寄り添って欲しかった」「あんな言葉遣いで話してほしくなかった」など、何か期待してることがありますよね。

たとえ、気づかなくても、
その人のありよう、ふるまいを、自分が望んでいる形に収めたい、
所有して、それを自分が望む形におさめよう、コントロールしようとしてた。でもそれが裏切られた。だから動揺したんですよね。

何か落胆、がっかりさせられる出来事があった場合。
たとえば、全力投球してた仕事が、思うようにいかなかった時はどうでしょう?

自分にはできない。力が足らない。そんな証拠をつきつけられたように思って落胆してる。
その裏には、活躍、成功したかったって思いがありますよね。

これも、状況を「所有」して、うまくいくようにコントロールした思いがありますよね。

 
そんなふうに、広い意味で「所有」したい思いは、いったいどこからくるのでしょう? 

エゴっていつも欠乏感を抱いていて不安なので、欠乏してる自分を補って、
実際より大きく、立派に見せてくれる同一化の対象を求めてます。
自慢の食器、自慢の家族、自慢の友達、いつも愛して優しくしてくれる人、うまくいってる仕事。うまくいってる状況を、求めてます。防衛ですよね。

せっぱつまって、期待通りの形で所有しよう、維持しようって何かに、誰かにしがみつけばしがみつくほど、
そこにはそれだけたくさん、欠如感が隠れてる。

つまり、「それなしでは私は不完全だ」からっていう信念が、それだけいっぱい、そこに隠れているって言えます。

するとどういうことがおこるかというと、隠してるこの信念が、
神の子としての私たちの信じる力で、この世界に現れることになります。

やっぱり私は不完全だって、確かめるような出来事ですね。
実は、それが、今、列挙してもらった心動揺したエピソードだったんですね。

所有とコントロールは、エゴの生理のようなものですが、
その正体は、「それなしでは」「さもなくば」・・・

私は不完全だ! どこか欠けたところがある! 欠如してる!

といった信念を隠すための防衛なんですね。


きらびやかなものをいっぱい所有して、その外観でどんなに巧妙にこの欠如感を隠すことができても、
人生の夢を織りなしていくのは、結局、その奥に隠してる信念「私は欠如してる」の方です。

辛い出来事、ゆるしの機会は、実は祝福 自慢のものや、家族や仕事の所有の裏に、どれだけたくさんの欠如感を隠してるか。うまくいってるように見える時には、普通、気づきません。

でもそれを失うと、「それなしには、自分が自分をどんなに不完全で、欠如してると信じてるか」が表に出てきます。これってありがたいことだと思いませんか? 

なぜかというと、もし、そんなことがなければ、この欠如の信念を無自覚なまま、ずっと抱き続け、きらびやかな「所有」の防衛に走るたびに、強化し続け、この信念の鋳型にはまった人生の夢を、金太郎飴のように、製造し続けなければならないわけですから。

欠乏感がむき出しになったときの心の動揺は、
所有の夢が頓挫するたびに噴き出してきます。

それって本当に、つらいものですが、大喜びで癒していきましょう。



とはいえ、癒しの基本は、責めないこと こんなに自分は、防衛してたんだって気づくたびに、もう一つの落とし穴として、自責がまじりこむってこと、ありますよね。これだけ一生懸命コースを勉強してるのに、ダメな私!!

そう思った瞬間、癒しのプロセス自体が「私はダメ、不十分」の信念にハイジャックされて、エゴの行為になってしまいます。

エラーをありのままに、正確に見て、どこに問題があるかを、はっきり理解するのはとても大切。でも、そこに自責を一切、入り込ませず、愛情深く、忍耐深く、ゆるしの視点で見ることが、コツですよね。

ある方が、ある本の言葉を引用して言ってくださったように、つまづくたび、「人間らしいね、かわいいね」って、言ってあげましょう。

そういえば、コースの口述が始まったばかりの頃のヘレンの抵抗はすさまじく、聞き間違えたり、気が散ったり、気晴らししたくなったり、ありとあらゆる手段で、イエスの口述をまっすぐに聞くのを拒んでましたよね。

でも、そんなヘレンに対するイエスの態度はいつも一貫していて、
彼女のエゴが引き起こすエラーは、容赦無く指摘する。
けれど、そんな彼女が、可愛くて仕方がない、
無条件の愛の姿勢も、決して揺るがないというものでした。

エゴを容赦無く正確につきとめる姿勢と、
全体を愛情深く見守る態度、
この二面を両立させられたら、癒しはサクサク進みます!

結局私たちはエゴではないのですから!



所有を知らないやさしいまなざし 
明後日から始まる次回の学習会では、もう一つ、
そんな所有にまつわるゆるしを確固たるものにするために、
本当の私はの辞書には、「所有」という言葉はない。
本当の私は、所有されることも決してないし、何かを所有することも決してないことを、
確かめていければと思います。

これは、個人としての私を温存させたまま、その私を特別なものにするために、スピリチュアルな力を手に入れよう、つまり所有しようとするいわゆる「スピリチュアル系」の態度と、コースのような非二元的な態度が全然違うってことも、はっきり理解させてくれます。

そのためのワークも、今、考案中です。
これも予習したい方も、
読書会当日までに、あるいはビデオ視聴してくださる前に、
次のことについて考えておいていただけると、ありがたいです!

前回、「おかあさん視点」と呼んでいた視点を、ありありと感じてもらうためのワークです。

もう一つ、予習したい方に

渦中にいたときは、とても辛くて大変だったけれど、
今振り返ってみるといい思い出。
あのとき、ああいうことがあったおかげで、今の自分がある。
実はありがたい、恵みだったんだ。

そんなふうに思える出来事って、ないですか?

もし見つかったら、この今の感慨深さと感謝のまなざしで、しばらくその出来事を思い出してみてください。

その後、もしこのまなざしを、
この出来事の渦中にいて苦しんでる自分が感じることができたら、どんな気持ちがしただろう?

って想像してみてください。
そうしている様子を感じてみてください。

あるいは、実は、実際に、あの時点にも、このまなざしあったんじゃないだろうか?
って自問自答してみてください。

今度は、このまなざしが、今の私も見つめていないか、自問自答しながら、
それを感じる試みをしてみてください。

つまり、自分の人生のシナリオの全体を絵巻物の全体を見るようにあらかじめ知っていて、時間を超えたところから見守ってるまなざしが、どんなときも私をみてる。そんな感覚です。

それがおぼろげにでも感じられてきたら、できる限り、いつもそれと共にいるというのを、試みてみましょう。



それは、視点、まなざし・・・としてしかとらえようがない。
どんな形におさめて「所有」することもできないし、何かのために利用することもできないって思いませんか?

また、そのまなざしは、それが見るもの、何一つ、所有したりすることもなければ、
コントロールしようともしない。

ただありのままにあるのを、ありのままにながめて、そこにあるものを受容し、愛し、ゆるしてる。

そう感じられませんか?



とうわけで、かなりネタバレになってしまってますが 今回も、体験的要素、盛りだくさんになりそうです。

カメオエッセイ13もやりたいです。神からの私たちの分離は、聖霊によって、即座に、神へ戻る道に、作り直される

ということは、つまり、私たち、失敗しても、全然大丈夫。というより、失敗大歓迎! なぜなら、そこでつまづいた、つまづきの石こそ、家に戻るための跳躍台になるのだから! 

そんなコースの発想の大元の考え方をおさらいするエッセイです。これも、自責からの脱出を徹底させるために、私たち、使いこなしていければと思います!

*ビデオについて

ビデオの中で触れてる、エーリッヒ・フロムの、所有することと、あることを対比させて論じている本の原題、ビデオでは、Having and Being と言ってますが、To Have Or To Be? でした。私の記憶違いでした。ここで訂正させてください。翻訳は、『生きるということ』でいいみたいですね。

この本を何十年も昔に読んでから、

どうすれば、「自分がその証拠(?)と思われるものを持ってるから、自分は~である」という発想を捨てて、

「自分自身が既にその具現なので、何もいらない」って言えるようになるかって、いつも考えながら生きてきました。

たとえば、「豊かさを象徴するようなものをたくさん持ってるから、私は豊か」というのではなくて、

「私は豊かさそのもの。だから、何もいらない」って、本当に言えるようになりたいな・・・とか、

「私は愛の中にいる。だから愛されてる証拠なんて何にもいらない」って、心の底から言えるようになりたいな・・・って憧れてたんですね。

答えは、コースの学習と実践の中にあった気がします。

本当の私、聖霊と共にいる私は、ただただ、「視点」であること、

人生の映画の内容ではなくて、人生の映画の全体を作り続けているカメラの視点であって、映画中の一登場人物ではないこと。

だから何かを「所有」することなんて、そもそもできないし、したいとも思わないこと。これをはっきり理解することが、鍵だったんですね。

この「視点」が唯一、所有したがってるものがあるとすれば、神のみ。

つまり、実相の愛や豊かさや安らぎに、もっともっと浸されて、

もっともっとやさしいまなざしで、全てを祝福しながらながめていたい、

ゆるされた世界、幸せな夢をみていたい・・・って思ってる。

今回は、そんな数十年間の想いがつまった話になりました。

*おすすめワーク****

1、「所有」にまつわるゆるしにフォーカス

コース学習者として、全ての心の動揺をゆるしの対象にするというのは、続けていきたいって思いますが、

今回はとくに、所有にまつわる動揺、小さなものも見逃さないように、心の観察をしてみませんか?

ビデオの中では、所有することを、欠乏感をなだめ、ごまかす防衛のために使うヘレンタイプと、

所有されることをおそれビルタイプに分けてお話しさせていただきましたが、どちらのケースでも、いいです。

ヘレンタイプのゆるしの際には、所有の隠れ蓑の下で、欠乏感や無価値観、自信のなさにおびえている自分をしっかり見て、感じてあげるのが、ポイントですね。

所有しようとしているものと正反対(だと信じ込んでる)自分が現れるので、びっくりするかもしれません。

ビルタイプのゆるしの際には、自分を所有したり、支配したり、振り回そうとしている大きな力も、

自分自身が、分離を選び、無力な存在であることを選ばない限り、そもそも見えないこと。

自分が自由意志で選択し直すことで、全く違う見方ができるんだという希望を捨てないことがポイントだと思います。

2、まなざしとしての自分でいる。

このまなざしを、実相の愛で浸しながら、日々を送るってこと、ためしてみましょう。

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