はっきり理由はわからないけれど、何となく落ち着かなくなったり、
今の自分の状態がとても空虚、退屈に感じられてきたりして、
そのままの状態では、いられなくなり、
ただただ、気をまぎらわすために、
必要でもなければ、「心底やりたい!」というわけでもないことを、
やろうとしてる自分に気づくことはありませんか?
嗜好品、たとえば煙草やお酒、カフェイン、甘いものに手をつけたくなるときは、
このケースがとても多いですよね。
微妙なものとして、
喉が渇いたわけでもないのに、お茶を淹れるとか、
お腹がすいたわけでもないのに、冷蔵庫をあけてみる。
特に必要なものもないのに、ショッピングに出かける。
特に用事もないし、話したいこともないのにど、親しい人に電話する。
特に目的もなく、ネットサーフィンをする。
必要以上に、SNS、メールをチェックする。
見たい番組もないのに、テレビをつけてみる、ゲームをする、映画を観る、カフェに行く・・・
散歩に出る、スポーツをするといった、一見、健康的な形をとることもあるかもしれませんし、
何か「生産的なこと」をしなければと、勉強や訓練、それこそスピリチュアルな修行に励むといったかたちをとるかもしれません。
気をまぎらわすために、この瞬間、何をするか、
戦略は人によってさまざまですが、
共通しているのは、
心の表面にうっすらとにじみ出てきた分離の傷に、蓋をしようとしてること。
退屈さ、空虚感、何か足らない感じ、漠然とした不安感は、
ワンネスからの分離の傷の最初のうずきです。
あまりに不快で、直視するに耐えられないので、
大抵の人は、何とかして、これに蓋をしようとします。
それが、今、リストアップしたような、人それぞれさまざまな行動の形をとるのです。
その目的は、この瞬間、心にぽっかり開いた空虚感や、足らない感じを、
美味しいものや、楽しいことで満たして、気持ちをまぎらわすことです!
もちろん、それ自体、全然悪いわけではありません。私自身もしょっちゅうやってますし。
例えば今日も、電車を待ちながら、退屈を感じてカバンの中をゴソゴソ探って、
読める本を探してる自分に気づいたばかりです。
ただ、一つ言えるのは、そうやって、空虚感に「蓋」をすることで、
大変なチャンスを取り逃がしていること。
癒され、解放されるためにせっかく浮上してきた「傷」なのに、
私たちのさまざまな「気をまぎらわす」行動でそこに「蓋」をすることで、
抑圧され、ますます心と身体の深いところへと
埋めこまれてしまうのですから。
「傷」を直視するのを避けて、楽しい気晴らしへと向かうことで、
幸せになれると、私たちは信じてますが(だから気晴らしするわけですが)、
それって本当でしょうか? (自分の経験に照らし合わせて、考えてみてください)
本当の幸せはむしろ「傷」を直視して、そこに何層にもなって埋めこまれた
抑圧された感情の一番底まで到達した時に得られるのですから!
というわけで、今日は、この「傷」を見つめるワークを紹介します。
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あなたがこれまで、
さまざまな「気をまぎらわす」活動へと走り、逃げ回ることで、
直面するのを避け続けてきた
この原初的な空虚感、欠如感は、
実は、いつもあなたのそばにいました。
苦手で、声をかけるどころか、目を合わせるのも嫌なので、
ちょっとでも姿が見える度に、出くわさずに済むように隠れていた
古いあなたの隣人のようなものです。
でも、実はそれは食わず嫌いで、
自分はこの人のことを全然知らなかったと認めて、
次に会ったら、今度は、家に招き入れる決意をしてみてください。
ようするに、次に、漠然とした不安や空虚感や足らない感じから逃避しようと、
何か気をまぎらわすような行動をしている自分に気づいた時には、
目をつぶって、
「もしこの行動に走らなければ、私はどんな感覚と向き合うことになるのかな?」
と問うてみます。
そして、その奥にある感情を見つめて、
意識的に、自分の心の家に招き入れてみるのです。
ウェルカム、ウェルカムと言いながら。
この漠然とした怖い感情の塊が
自分の心の中へと、完全に入ってくれたのを感じたら、
まずは、くつろいでもらいましょう。
この感情が、自分のありのままの本性をあらわにしながら、
のびのびできるように、
一切手出しせず、ジャッジせず、
ただただ、感じ続けます。
この感情を、まるごとかくまう
気づきの空間になるのです。
それがあなたのおもてなしです。
その様子を、ルパート・スパイラさんは、冷たい水の中に入る様子にたとえています。
温泉でのぼせた体を冷やすために、水風呂に入るときのことを思い浮かべてもいいかもしれません。
さぞ冷たいだろうと、恐れ、身構えていますが、足先から少しずつ浸していくと、
すでに水に浸った身体の部分は、水に慣れ親しんで何も感じない。
ただ、まだ浸かっていない部分が、怖がってじたばたしてるだけ。
浸るまでが大変なだけなのですね! 浸ってしまうと、なんてことはない。
逆に身体が内からポカポカしてきます。
というわけで、完全にこの人、この感情を感じてみましょう。
無害に見えた退屈さの下から怒りが顔をのぞかせたり、
怒りの下から、悲しみが感じられたりと、
幾重もの層をなしているのに気づくかもしれません。
いつまでそれを続けるのでしょうか? この層の一番底まで達した目印はあるのでしょうか?
ルパートさんは、「抵抗をまったく感じなくなるまで」と言っています。
どうすれば抵抗を全く感じられなくなったかどうかがわかるかというと、
「一生、どうぞ、私の家にいてください」と言えるかどうか。
自然にそう言えるようになるまで、目をつぶって、感情に集中したまま、10分でも、20分でも、時間を使ってください。
その後、この「怖い隣人」が、どう感じられるか。それは体験してからのお楽しみです。
実際に、これをやってみると、「気をまぎらわす」ためのどんな行動よりも
ずっとずっとエキサイティングで、面白いことに気づきます。
たくさん涙を流し、感情を爆発させることになるかもしれません。
でも最後には、静かでやさしい青空が、心に広がります。
気晴らしを諦めることで、本当の意味で心が晴れるのです!
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このワークをやる時のポイントは
「癒されよう」とか「悟りたい」といった下心を持たずに
純粋に、これをそれ自身のためにやることです。
そうしないと、このプロセス全体をエゴが乗っ取ってしまい、
ワークを「結果を出す」ための単なる「道具」や「手段」に貶めることになってしまいます。
そんな状態では、うまくいきようがありません。
楽しむ気持ちをどうぞ大切にしてください。
私がこのワークを、「怖い隣人」や「家」といったイメージを使って
物語仕立てにした意図もそこにあります。
余計なことを考える思考に一時、黙ってもらうためのテクニックです。
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お茶をしたり、ショッピングをしたり、散歩をしたりといった、
漠然とした不安からの逃避に使われがちな行動自体を
やってはいけないと言っているわけではありません。
逃避の手段としてやってるのに気づいた時には、
それをやるより心を見つめた方がいいよと提案してるだけです。
心を見つめるこのワークがうまくいけば、
本当にやりたいことが見えてくることがよくあります。
それがたまたま、その前にやりたいと思っていた逃避行動と
外的には同じものである可能性もあります。
でも、ワークの前にそれをやるのと、後にそれをやるのとでは全然質のちがったものになるはずです。
今や、欠如感からではなく、満たされた気持ちから、
不安からではなく、愛から動いているからです。
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写真はウィリアム・ターナーの水彩画、アルプスの風景画シリーズの中の意1つ。
私は彼の絵が昔から大好きで、イギリスのテートギャラリーなど、夢中になって見てまわったものですが、
今になってわかるのは、とくに彼の水彩画の繊細なタッチは、気づきの触手そのものなんだってこと。
彼の作品を眺めていると、
世界は、客体として、名詞としては存在せず、
そこにあるのはただ、「見る」「聞く」「触れる」動詞があるばかり
あまねく遍在する気づきの繊細な働きそのものが、
世界として出現していることが見て取れます。
