悲しかったり、イライラしていたり、幸せいっぱいでない自分に気付いた時、一番禁物なのは、そんな私は間違っていると、自分を責め始めること。
そうすると罪悪感を持ってしまい、それがまた別のイライラ、悲しみを引き起こし・・・といった堂々巡りから抜けれなくなる。
でも、『奇跡のコース』がよくできているなと思うのは、そうした袋小路を軽々抜け出るような心の定義の仕方をするから。
つまり、心は、自分が何に仕えるかを選択する装置にすぎない。それ自体、よくも悪くもない。
どんなに心で嵐が吹き荒れて、怒り狂っていても、残酷な気分になっていても、心そのものは、悪くない。選択スイッチを入れ間違えただけ。
必要なのは、本当の私、スピリットの方に、スイッチを切り替えることだけ。それだけを淡々と行なえば、嵐は、自然に静まり、通過していく。
ポイントは、心が怒っている、悪い心を持ってる・・・というふうに考えないこと。心は良くも悪くもない。一時的にスイッチを入れ間違えて、仕える主人を誤っただけ。ギルティなのではなく、ちょっとミスをおかしただけ。エラーを正せば、それで万事OK。責めたりしてもしょうがない。
この方法は多分、他の人の攻撃にあったときも有効だ。
ただ、スイッチだけをしっかり切り替えて、本当の私、スピリットの側に立ち、悪天候が通過していくのを待つ。
こんなときほど、清らかで、どんな責めも、罪も届きようがない場所、本当の私、スピリットの側にしっかりととどまって、相手を見守ることが肝心だ。
一番良くないのは、攻撃される自分に非を認め、この人がこんなふうなのも、自分の至らぬせい、自分が悪かったからだとか、自分まで自分を責め始めること。すると自分も相手もろともエゴの暴君の支配下に落ちてしまう。
それは、でも、攻撃的な相手を見下すことでもない。相手も、単に、スイッチをかけ間違えただけ。本当にあなたは、そうやって我を忘れて怒ったり嘆いたりしている間も、超然として、安らいでる。それが現れるまで、ゆっくりと、信じ、見守ること。
なんだかやせ我慢の苦行をしているように聞こえるけれど、勝算はある。
というのも、そのとき、相手を静かにみつめるスピリットとしての私、本当の私は、まったく先入観を一切持たない存在だから。つまり、毎瞬毎瞬、まったく新たな存在として、初めて出会ったかのように相手を見出せるから。しかも、究極のところで、人を、人生を信頼しているから。
すぐに効果は出ないかもしれないけれど、長い目で見ると、きっと相手を助ける。それは、ガンディーが極限的な場所でも、証明してきたことだ。
