コースは自習教材。でも、どこかに書いてあったように、「私たちは自分で自分を救うのではない。むしろ、救ってもらうことを許可するallow」方法を教えてくれるものです (forgiveのゆるすと区別するために、あえて、硬い言葉「許可する」を使います)。「私はダメなの。値しないの・・・」という根強い自己懲罰の癖を少しずつ解除して、いつもそこにあるやさしい力に、「私を助けてもいいわ」とゆだねていく。それだけのことなんですね。自分でやる必要もないのはもちろん。相手に頼む必要もない。相手は助けたくてうずうずしてるわけですから。これをやさしいと言わず、何をやさしいといいましょうって感じです。
「私は愛です」「私はゆたかです」といったアフォーメーションを毎日しながら、「本当に効くんだろうか?」と時々不安にかられてたこともあったけれど、コースを学んでからは、代わりに毎日「本当の私って誰ですか? 愛って何ですか?ゆたかさって何ですか? 教えてください、見せてください!」とスピリットに向かって祈っています。この祈りは「効くんだろうか」なんて問いを受け付けないところが、好きです。だって、私自身、愛やゆたかさが何かを知らないわけだから、そんなこと、問いようがありませんものね。
そして、毎日、これまで想像もしなかった「私」や「愛」や「ゆたかさ」の深みを感じさせてもらうことを、「許可して」いく。奇跡に身を開いていく。それがコースの実践かなって思ってます。本当に簡単。自力でやることを減らせば減らすほど、進むしくみになっています。
といっても、うんと頑張らなきゃいけないことが一つだけあって、それはエゴの解体とパラレルに進む罪悪感の掃除にともなう感情のマネジメント。
深い深い虫歯を、麻酔なしに抉っていく治療を受けているように、罪悪感の抉り出しは進みます。深掘りすればするほど、神経が入ってるので、痛みもひとしお。穏やかな日々の中、ちょっとした出来事を端緒に、突然、怒りや、自己無価値観の発作におそわれることもあるかもしれません。私も2〜3日前にありました。
しかも、コース的に考えると、それを「人」や「状況」のせいにすることは、一切できません。すべては私の心の中にある罪悪感を鏡写しにしているって考えるわけですから。
でもこれも現れた感情を「許可する」のが鍵だと思います。否定したり、抑えたり、自分を責めたりしないで、素直に表す。暴力的になったり、感情的になればいいというわけでもない。反撃の恐怖のただ中ではなくて、安全だって感じられるところでやるのがコツのようです。どこか一人になれるところで大声で叫んでもいいし、じた踏んでもいいし、あるいは心の中で、存分に暴れまわるのもいい。汚物のようなものを「出す」というより、「表現」するのが、スピリットと速やかに同調させてくれる気がします。物語などその典型ですが、表現って、それがつくりものであること、虚構だってことを前提にしますしね。何か表現活動をしている人は、それで表してもいい。ジャッジせずにただただ聞いてくれる友達がいたら、その人に語ってもいい。ペットも役にたつかも。心底、安全だって感じられれば、どこでもいいようです。私は心の中で、できるだけ大げさに誇張した表現をして、スピリットと一緒に大笑いしてます。すると、消えていきます。そのあとの爽快感は、本当にすばらしい。どんなにくらい感情も、自分を責めたり遠慮したりせず、素直に、まっすぐ感じて、隠さず、オープンに表現すれば、スピリットとともに受け取ることになり、カタルシスが起こり、消えていきます。
ここでも結局、スピリットにゆだねることが問われているわけですが、スピリットとの同調の軸からそれてしまっているので、軌道にもどるために努力が必要になるわけです。でもその基本はやっぱり「許可する」ことだと思います。
