ほとんどの人は、「それは修行を積んだ上級者にしかできない」と思いがちだと思います。私自身もそうでしたし。でもそれは、積み上げの成果というより、視点の変更。ほんのちょっとだけ心のスイッチを切り替えることにすぎない気がします。
具体的に言えば、「私」を個として考えるのを一切放棄して、ただ「管」として考える発想の転換なんですね。
インスピレーションに従って生きるというと、普通、「私」という個人がそれをいただいて(そこには特別性の発想、かなり入り込んでますね。才能あるから、霊感あるから、そんなことできるというように。それはすべてどちらかというと、導管の詰まりになります)、それを言葉や行動にして、インスピレーションを得られない下々に伝える(これもまた特別性の発想!)なんて考えがちです。
でも実際は、個人であることを一切放棄。プライドも恥も外聞も、前提も、主義も、好みも、自分の側で立てた計画も、少し前にいただいたガイダンスの内容さえすべて捨てて(状況変化すると、軌道修正するような促しが来ることも多いです)、促しがあったら、それを即、実行したり言葉にする、空っぽの「管」になるだけ。これでもかというほど、へりくだらせられるプロセス、個人としての自分がいかに何も知らないかを思い知らされるプロセスなのですね。
もう一つ、「管」という比喩にも限界があるかも? 一方向でなくて、全方向にひらくようにも促されるから。コースのテキストにあるように、「持つためには、すべてをすべてに与えなさい」というのも、ガイダンスに沿った生き方をするときの大前提。
何かスキルがいるとすると、謙虚であることと、敏捷であることくらいじゃないかしら? 「賢者」とは程遠い。獣の気配にいつも聞き耳を立てては、瞬時に動く「狩人」のイメージに近いですね。
それから、プライド、アイデンティティの元になるような、自己定義、セルフイメージを一切持たないこと。アイデンティティを持つとすれば、それは私「個人」ではなく、つながる全ての人たちと共有するスピリットの「場」全体、サンシップなのですね。
自分は「管」にすぎないイメージするのも、役に立つと思います。とにかく少しでもひらめくことを、すぐにシェアする習慣をつけていれば、だんだんひらめくことの量が増えてくるので、いやでもそう感じるようになります。
それから、忙しくなります。誰に雇われているわけでもないのに、やることが次から次へと出てくる。そのすべては「促し」にすぎないので、いくらでも無視しようとすれば無視できることなのですが。ちょっとした出会いが気になって、その人に連絡とってみるとか、エゴとしての私から見たら、おせっかい。変質者に見られるんじゃないかと思ったり、とにかく、お笑い沙汰なことをするように促されることもしばしば。しかもそれが何の役に立つのか、少なくともその場では全然わからなかったりする(最後までわからないときもあります。でもいいんです)。
報酬や見返りなんて考えてる余裕はないですね(たぶん考えると、それ自体「管」の詰まりになるはず)。でも、思わぬ時に思わぬご褒美、もらえます。それから、なぜか、暮らして行くのには、困らずに済む。まもられてる。それから、健康にもいいみたい。エネルギーが体をみなぎっている感じ。ここのところ、睡眠不足や無頓着のひどい食生活にもかかわらず、この冬、まだ一度も風邪ひいていないし、病気らしい病気、ずっとしてません。
