来週末の東京の会(詳細、申し込みなどはこちらから)でやりたいなって、今インスピレーションとしてきていることその2です。
前回の投稿で、
何にも起こっていない、実相の静けさだけが満ちているスポットが、誰の中にもありますって書きました。
一体どうすれば、そこに入れるんだろう?
私にできるかしら? っ
て疑問に思われた方も多いかもしれません。
というわけで、ここでは、もうちょっと手掛かりになりそうなこと、お話しできたらって、思います。
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一言で言えば、
何もかも分からない・・・と思えば思うほど、安堵感やよろこびが湧いてくる場所にいる
ってことですね。そのこと自体、本当に楽。また、とても気持ちいいです。
まさに温泉にひたってるよう。
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ここまで言うと、「なんだ、あれのことね」って微笑む方もいらっしゃると思うし、
何のこと話しているのか、全然分からない方もいらっしゃると思います。
スピリチュアルなことって、そういうところありますよね。
体験があるかないか、
本当に、それだけなんです。
分からなくても、大丈夫。
そこへと歩み始めることができる、道、いくつかシェアすることができますので。
思考が途切れたところにあるお楽しみ
わからないっていうのは、自力で考えることを放棄しちゃうってことですよね。
言い換えれば、思考を止めるってことですが、
思考って止めようと思えば思うほど、出てくるところありますよね。
私は思考を止める必要がある→でも、すでにいっぱい思考が出てきた→そこで、自分を責めたり、何とか止めようともがいたりしても、うまく行きません。思考で思考を止めようとする、同じレベルで、いくらもがいても、悪循環に入るだけ。抜け道は見つかりません。
ではどんな「別のレベル」をここに導入するか。
観察視点です。ちょっと抽象的に聞こえますが、
体験するのは簡単。
それについては、エックハルト・トールさんがパワー・オブ・ナウの中で提唱してる方法がシンプルでいいかも。
私の中に、次に、どんな思考が湧いてくるかを、待つってだけの方法です。
ちょっと息を凝らす感じで、
ネズミ穴の前でいつネズミが出てくるかと、じ~っと警戒しながら待機している猫のように、
次の思考が湧いてくるのを、今か今かと待ち続けます。
目を瞑ってもつぶらなくても、OK. やりやすい方でやってみてください。
そうすると、なかなか、思考が出てこないのに気づきませんか?
この「じ~っと、警戒しながら、待機する」感じ、これが観察視点のはじまりです。
この感じがつかめたら、そのまま次のエクセサイスに移って、
この感じのまま、思考抜きで、自分のまわりを見回すってことやってみましょう。
ほんの短時間、たとえば数十秒などからはじめてもいいので、何も考えないで、「ポカン」と、周りのものをただ眺めるんですね。
これを、少しずつでいいので、数十秒を1分に、そして2~3分にというように間をのばしながら、
同時に、ほんの少しずつでいいので、警戒体制をゆるめて、力を抜きながらやる練習も始めてみましょう。
もちろん、警戒体制をゆるめて力を抜くと、
それだけ、思考が忍び込んでくる可能性が高まります。
だから、様子をみながら、ほんの少しずつ力を抜く必要があります。
ちょっとリラックスしすぎて、思考がはじまりそうになったら、
またじーっと息を凝らして警戒する態勢に戻ってください。
そんな感じで、少しずつリラックス度を高めながら、思考のないポカンとした状態で周りを見る練習、しばらく続けてみてください。
慣れてきたら、同時に、
思考抜きでものを見ている時に「どんな感じがするか」その「感じを」味わうってことやってみましょう。
例えば、ものの見え方、いつもと違う感じがしませんか? まるで絵画か、映像美に優れた映画をみているように、見るもの全てがとても美しく見えてきたり、
しーんとした、微動だにしない静けさに浸されて見えてきたり、あるいは逆に、生き生き、生気に満ちて見えてくるかもしれません。
ほんのかすかで、大丈夫です。美しさ、静けさ、クリアさ、安らぎ、愛、生き生きとした感じ・・・・が、見るもの全体を浸しているように、感じられてきたらいい兆候。実相への橋がかかった兆候です。
リラックス度を高めながらこのエクセサイスをできるようになるに従って、
この「感じ」が、どんどん高まっていきます。
静けさとして感じられるのであれ、クリアさや安らぎ、やさしさ、生き生きとした感じとして感じられるのであれ・・・少しでも、この「お楽しみ」が感じられてきたら、その感じに浸りながら、その中でくつろぐってことを少しずつはじめてみましょう。
リラックス度が高まるにつれて、それまで「がんばって思考を止めてる」感じが、「わからなくていいんだ」という安堵感へと、徐々に変容していくのに気づかれるかもしれません。
この「感じ」があまりに気持ちがいいので、このエクセサイスが病みつきになる日がくるかもしれません。
あるいは、この「感じ」、どこかなつかしい・・・私、これ、よく知ってる・・・って思われるかもしれません。
いつも心の背景に、遠くで聞こえる、微かなせせらぎの音のように始終あることに気づかれるかもしれません。
これが本当の私たち、私たちの実相だからです。
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それにつれて、この感じの中に、自分のチョイスで、意識的に沈み込むこともできるようになります。
するとそこから、最初にお話しした「何もかもわからない・・・」と思えば思うほど、
安堵感、甘やかな喜び、すべてが、初めて見るように新しい感じ、未知のものに対するクリエィティブでワクワクとした感覚が
渾々と湧き出てきているのに気づくと言うわけです。
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このエクセサイズを続けられるうちに、
「思考は出てきていない、つまり、私は何にも考えていない。
なのに、なぜか、わかってることがある!」
ってことに気づかれるかもしれません。
すごく自然で、あたりまえでしょう!というような確信とともにつかめる知識です。
コース学習者は、これが聖霊やイエスの助けの力やガイダンスと合流する確実な方法の一つだってことに、きっと気づかれると思います。
私自身、オンラインやリアルの会の準備をするときは、できるかぎり、この「わからなさの中にある安堵感」に浸るように心がけています。
というのも、そうしてると、ひとりでに、内容ができていくからです。
コース学習者でない方にわかりやすい言葉を使えば、
高次の知性からのインスピレーションを得るには、低次の知性をストップさせる必要があること。
安らぎやよろこびといった感じは、高次の知性の源泉とつながったサインとして、
その目安にできるってことですね。
ゆるし
もう一つ、特にコース学習者におすすめなのは、ゆるしです。
ゆるしって、いろんな言い方できると思うのですが、一つ言えることとして、
「神は問題があるところに、解決策を置いた」
という原理を使いこなすってことですよね。
問題のどん底の、すぐその裏側に、解決策がある・・・
ということは、すべての問題は飛躍のチャンスだってことです。
たとえば、このブログを読まれていて、抵抗が出てきた方、
「私にはとてもできない」という無力な感じが出てきた方、いらっしゃるかもしれません。
その無力感そのもののすぐ裏側に、突破口があります。
その感じを、自責やジャッジの標的にせずに(もしそうしそうだったら、「そうなんだ」と、まずはそれがあることを、ありのままに認めるステップを踏みながら)、それがそこにあることをゆるしながら、丁寧に味わうってこと、やってみてください。
自分を変えようと、いくら頑張ってもうまくいかないのに、
変えるのを諦めて、ありのままをゆるし、無条件の愛で受け入れると、
心が自然に安らかになって、聖霊と合流して、
気がついたら、変わっているのに気づく・・・
このパラドックスの奥深さをゆるしのたびに、堪能してみてください。
そしてその瞬間、感じられる安堵感、安らぎの中になるだけとどまるってこと、やってみてください。
そこから徐々に、「わからなければわからないほど、安堵するところ」へアクセスする道がひらけてくるかもしれません。
同じように、「わからなさ」からくるモヤモヤした不安や怒り、
逆に全てがわかりすぎて、面白くない、退屈だ・・・といったいらだちなどなど、
思考や理解や知識をめぐるあらゆるストレスが、
ゆるしによって、「わからなければわからないほど安堵する」より高次の知識への道へと反転する可能性、秘めてるって思ってます。
