ヘレンのノート版ACIM読書会

ヘレンのノート版ACIM読書会44回目 「ゆるす必要は何もない」ところにい続ける

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2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。

会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。

もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。

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今回扱うテキスト****

カメオエッセイ25 「主の祈り」のコースバージョン 私の試訳はここにあります。

*予告編***

コースの口述筆記を進めながら、ヘレンは時おり、そのうち、とんでもない支離滅裂なことを書かされることになって、

すべてはナンセンスだったって暴露される日が来るのではないかといういわれのない恐怖を抱くことがあったそうです。

エゴからの抵抗のあらわれなんでしょうかね?

今回も、そうした心配が耐え難いほど高まったヘレンが登場します。16章の末尾を筆記していた最中

「とうとう恐れていたことが起こった!」とえらく取り乱したのですが、

翌朝、落ち着いて、ビルと一緒に読み直すと、

キリスト教圏では、みんな子供の頃から馴染んでる、なつかしい「主の祈り」の文言が、

コース風にアレンジされて書き取られていたにすぎなかったことに気づく・・・という話です。

コースの見地から、どんな風に、「主の祈り」が、コースの見地からアレンジされているか見ていくと、

慣行的なキリスト教と一線を分つ、コースならではの特徴、

というより、コースの本質そのものが、浮き彫りにされていきます。

ここで両者を挙げますと 

オリジナルの主の祈りは次の通り:

天にまします我らの父よ、願わくば、御名をあがめさせたまえ

御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ

我らを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ

国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり。アーメン

コースの主の祈りは次の通りです

父よ、私たちの幻想をおゆるしください。

そしてあなたとの真の関係を、私たちが受け入れるように、助けてください。この関係の中には幻想はなく、そこには、どんな幻想も入り込む余地はありません。

私たちの聖性はあなたの聖性です。あなたの聖性は完璧であるというのに、私たちの中にゆるしが必要なものが、ありえるでしょうか? 

忘れてしまうしまうという眠りは、ただ、あなたのゆるしとあなたの愛を思い出すことを意欲していないことを意味するにすぎません。

私たちが誘惑の中へと迷いこむことがありませんように。誘惑の中へと彷徨い入っていかせないでください。というのも、神の子が誘惑に惑わされることは、あなたの意思ではないからです。

そしてただあなたが与えたものだけを、私たちが受け取り、

あなたが創造し、あなたが愛するこの心の中に、これだけをどうぞ受け入れることができますように。

一番違うのは、オリジナルの主の祈りでは神に対して私たちは、私たちがおかした「罪」に対してゆるしを求めているのですが、

コースのバージョンでは私たちの「幻想」に対してゆるしを求めていることですね。

また、オリジナルの主の祈りでは、私たちが誘惑にあわせないように求めているのですが、

コースのバージョンでは、私たちが誘惑に迷い込まないように、助けを求めていることですね。

つまり、コースによると、神はただ私たちを愛していて、

私たちを誘惑のテストにかけて、裁いたりする気は毛頭ない。

でも私たちが自分で勝手に、自分の選択で、自作自演の誘惑の中へと、迷い込んでいくわけです。

そして神がどれほど私たちを愛しているかを、すっかり忘れてしまい、

自分で勝手に、自分を罰しながら、自己卑下的な信念を握りしめ、

欠乏感や無価値観や孤独におびえては、防衛するために自己流に戦う幻想に耽り、

眠り込んでしまってる。

そんな私たちが勝手にでっちあげた誘惑に、これ以上惑わされないように。

またこの誘惑の中ででっち上げた幻想を手放して、

ただ神の愛だけを、神からのものだけを、

愛の幻想ではなく実相としての「事実としての愛」だけを受け取ることができるように、祈るわけです。

オリジナルの祈りの中にある、罪に陥る恐れ、裁かれる恐れも、実はこの幻想の一部。

神にどんなに愛されていたかを忘れてしまい、

それを思い出すことを拒絶したことから出てきた言葉にすぎない。

今こそこの愛を思い出させてください、感じさせてくださいって祈るわけです。

今回は、このコースバージョンの主の祈りにある、

私たちに対する神の愛をただ受け入れる、それだけを受け入れる、

方向だけに向き直り、そちらの方向だけに向かって進みはじめるってことをやりたいです。

そのためには、間違った方向に愛、救い、幸せを求める幻想にこれ以上耽ることをやめなければなりません。

この祈りで終わる16章は、聖なる瞬間のほか、特別な関係にあてられています。

だから祈りで言われる「幻想」は、主に特別な関係にまつわる幻想、

神から来た「愛」は、聖なる瞬間に受け取られる愛を、主に指していると思われます。

実際、幻想はタイムライン上で展開される以上、

タイムライン上にいる限り、神の愛は受け取れません。

過去を一切手放した、今この瞬間に正確にいる必要があります。

実際、過去を一切忘れて、ジャッジも、ジャッジからくる思考も始まらないポカンとした心で今、この瞬間に正確にいることができると、

「ゆるしが必要なものなど、どこにもない」ことが、はっきりわかりますし、

奇跡の知覚の変化が起こり、

神と等しい聖性を受け取りながら周りに延長する場に自分がいることも感じられてきます。

聖なる瞬間ですね。

この聖なる瞬間がおこる場所に、心のチューニングを正確に合わせるってこと、やってみましょう。

また、そこで受け取られる愛、神の愛、幻想を含まない「事実としての愛」は、

どんな形も取らないこと、

だからこそ、全ての形を包み込んでいく広がりとして感じられることを、確かめましょう。

その感じの中で、あらゆる「気になる」人や状況を見直すことで、

喪失も変化も知らない絶対安全な、ゆるぎのない視点に、どしんと入れることも確認して、

それを日々のゆるし、癒しの中で使い尽くすってこともやってみましょう。

また、「愛」をそうした形を超えた無形性に見ずに、

逆に、この世界の中に見られる特定の「形」(人や状況の特定のあり方など)の中に見て、

それを所有やコントロールの対象にすることで、

分離感をなだめたり、欠如感を満たす詰め物として、人や状況を利用する「特別な関係」が、

どれほど破壊的な作用をもたらすか。

この機会に、これもあらためて復習して、

「特別の関係」の相手に、自分の期待を叶えてもらえるかで、戦々恐々としたり、

それがかなわなかったからと、怒りを募らせたりするのはもう卒業。

その代わりに、周りの人や、状況を、神の愛の中で見直すことで、

共に癒されながら、神の創造の延長をともにした結果、目にすることができる

自分のクリエーション(creation 被造物と訳されてます)の証とつながる喜びの中で生きるってこと、はじめてみましょう。

*補足****

今回はちょっと補足があります。

ビデオを作ったり、夜の部をやっているうちに、16章のもう一つのライトモチーフ、
特別の関係を、クリエーション(creation 邦訳では「被造物」と訳されてます)の関係の置き換えていくというテーマも扱わなければというインスピレーションがきました。
二つの関係の違いは、この表を使うとわかりやすいかもしれません。

特別の関係にはいろんな局面ありますが、手っ取り早くいうと、横軸の「欠如を→埋める」ために人間関係を使うことだって、いえますよね。
でも、この欠如感は、私たちが分離を選び続け、そのための信念を握り締め続けてるせいで、
どこに行っても、何をしても、欠如が見えることからきてる。つまり、ものの見方のレベルにある欠如感で、事実として何か欠如してるわけではない。
赤いものしか見えない赤く染まったサングラスをかけたまま、赤いものが見たくないと思って、見えるものを一生懸命青く染めても依然として赤いものしか見えないのと同じで、
欠如しか見えないメガネを外さない限り、
この世界に見えるどんなもの、どんな人にも埋めることはできません。
レベルの混同ですね、

そのレベルの混同のエラーからくるどうどうめぐり、ジレンマが、人間関係の中で双方向的に展開されるとなると、とりわけ、かなりキツイですよね。
特別の関係にいる限り心の動揺が絶えません。

でもその動揺の最中であっても、縦の「癒しの力」を受け入れることが、私たちにはできますよね。
そのためには、一切の過去を振り捨てて、「今、この瞬間」に、正確にいることさえできれば、いいだけ、
その道は、あらゆる瞬間に開かれている。
この瞬間、私たちが受け入れて、「風船の瘤」をふくらませて分離を癒していける「癒しの力」は、
16章では、「特別の愛の関係」の幻想としての愛に対する「実相の愛」、「事実としての愛」、
最後の「主の祈り」のバリエーションの中では、「あなたらくるものだけを受け取らせてください」という時の「あなたからくるもの」というふうに、言い換えられていきます。

ここで重要なのは、そんな縦の癒しの力を私たちが受け入れる時、癒やされるのは、いつも私一人ではないこと。周りにいるみんなと癒しが分かち合われることです。
私が受け取った縦の癒しの力は、周りの人たちにどんどん連鎖的に広がっていきます。
そうして、一緒に癒されていく人たちとの間にも、とても強い絆が生まれます。サンシップ、神の子の一体性に裏付けられたゆるぎのない絆です。
これがクリエーション、創造の関係ですね(「癒し」と「創造」は違ったことのように聞こえますが、私たち一人一人が分離を取り消して、全一性を取り戻すことは、私たちの側から見ると「癒し」ですが、神の国の側から見ると、神の国の愛を延長が続いていくクリエーション、「創造」にあたるので、癒しと創造は同じ事態を違う視点から見てるだけだっだっていえます)。

この16章を筆記中のヘレンは、だんだん、周りの人を癒したり、周りの人を教えたりしはじめていたのですが、それに自分自身、気づいていないし、何が起こっているのか、自分でも理解していない。自分が期せずして、癒したり、教えたりする役をすでに引き受けていることを、受け入れることすら、躊躇してたようです。エゴがコントロールできず、理解することもできない訳のわからないプロセスに、自分がすでに巻き込まれてしまってることに、おそれを感じていたんですね。

そんな彼女をなだめるように、イエスは、「真の共感」や、「聖性」や「奇跡」が分かち合われた時に生まれる力について話したり、
自分がすでに教えていることを受け入れることで、自分が教えていることを自分も学ぶようにって説くわけですね。
で、そんなふうに、共感や聖性や教えの分かち合いでできていくクリエーションの関係の中に生きるように・・・特別の関係の中にではなく・・・と諭しているわけです。


おすすめワーク***

1、これって、どっちの関係かな?

というわけで、今回のおすすめワークその1は、自分の周りの人間関係の一つ一つを、「この関係は特別の関係? クリエーションの関係?」って自問自答してみることですね。

こういう学びを続けて、しかも、ちゃんと実践に落とし込んで、癒し、ゆるしをコツコツ進めていらしたら、周りの人が勝手に、ひとりでに変わり出して、たとえば、口うるさかった家族や上司が、おだやかになったりしたことに気づここと、ありますよね。その点、16章筆記中のヘレンに起こったのと同じことが起こってるわけです。

ここで、分離からくる卑小性を握り締めたい衝動など湧いてきて、すでに進行中の事実を否定したくなったりするかもしれませんが、そこであえて、自分はすでに教えていること、癒していることを、この機会に受け入れましょう。ここにあるのは、もちろん、「クリエーションの関係」です。

夫婦関係のようにもとは「特別の関係」で始まったものでも、私たちが癒されていくにつれ、自然に「クリエーションの関係」に次第に移行することも、よくあることです。

もちろん、ハイブリッドの場合もありそうですね。そんな時は、「特別の関係何パーセントで、クリエーションの関係、何パーセントくらいだろう?」って自問自答するのもいいかもしれません。

特別の関係、含まれているなって感じたら、そこにあるおそれをあぶり出してみてください。相手を失うおそれ、相手に立ち去られるおそれ、嫌われるおそれ、幻滅させられるおそれいった形をとってるかもしれません。あとは、それが出てきてくれたことに感謝しつつ、「そうなんだ」と歓待して、いたわりながら受け入れて、ジャッジ・思考が出てこない状態でじっと優しく感じてあげてください。

「そうなんだ」ワークでいう余韻、温泉ワークの温泉だけが残った感じになったら、その中であらためて相手を見てみましょう。

2、幻想をゆるすだけ

「ゆるす必要のあるものなど、何もない」、神と等しい聖性を持つ神の子の視点にいるってことを心がけながら、日々のゆるしをするってこと、やってみましょう。

「罪」ではなく、「幻想」をゆるす視点って、言い換えてもいいと思います。「幻想」をゆるすとき、実際、ゆるしがひつようなことなど、何も起こっていないことがわかるからです。

これから次回読書会まで、3週間ほどありますが、その間、そこにフォーカスをあてながら、ゆるしをされると、前よりゆるしがやりやすくなっていくのに気づかれるかもしれません。

ビデオでお話ししている、「あっ」って気づいたところで止まって、裁きの夢が見せる罪悪感や攻撃心たっぷりのドラマの思考にはまり込まないところに、警戒しながら止まり続ける方法、うまくいきそうだったら、ぜひ、試してみてください。

といっても、感情が出てきても、全く大丈夫。そのことで自分をジャッジすると元の木阿弥になってしまいますよね。「そうなんだ」って、歓待して、いたわりながら感じてあげましょう。

3、ゆるぎない実相の愛の中に、ゆるぎなくい続ける

ビデオでもお勧めしているように、

分離を続けるために、苦しみ続けようとする力動、ペインボディからくる感情に対して、、

それが言うことに耳を傾けず、そこから罪悪や攻撃のドラマが展開されないように、ジャッジや思考のない状態にぐっと警戒しながら止まっているのって、

ものすごく効果的だとは思うのですが、

ちょっと荒業的なところもあります。

思考に逃げることで、苦しみを和らげる道が閉ざされてしまうからです。

おそれがドッと出てくる可能性もあります。

どんなに怖がって泣いている子供も、お母さんの胸に抱かれると安心して泣き止む、
そのお母さんの胸に抱かれるような場所(実相、あるいは、聖霊、イエス・・・共にいるところ)を心の中に育みながら、
そこでたっぷり休みながら、そこにしっかりしがみつきながら、一歩一歩、進んでいかれると、いいかもしれません。

ビデオの冒頭部の瞑想も、インスピレーションがあったら、どうぞ活用してください。

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