2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。
会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。
もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。
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使用したテキスト****
今回は、ヘレンのノートをもとにした、ロバート・ペリー編纂のCOA(Circle of Atonement)版の巻末の
カメオエッセイ23 個人的拒絶という野蛮な問題 私の試訳は、ここをクリックすると出てきます。
および、テキスト13、14章を主に参照しながら、話をさせていただきました。
*読書会42回目の予告編***
今回は、14章の7節目(青の本では5節目)の「贖罪の輪」の節の書き取りが終わった頃に、
ヘレンがイエスから受け取った個人的なメッセージを扱った
カメオエッセイ23 個人的拒絶という野蛮な問題
と、そこに出てきた「無罪性」のテーマを、テキスト13章、14章の関連箇所も参照しながら、扱えたらと思っています。
*
祈りや瞑想、ワークやレッスン、ゆるしの実践をするたびに、
心をタイムラインのストーリーから引き離して、
今この瞬間、縦に流れ込んでくる癒しの力に心を開いて、聖霊と合流。
ほっと安らいだり、元気になったり、
インスピレーションややる気に満たされるようになった方
すでにもう、たくさん、いらっしゃると思います。
あとは練習を重ね、成功度を上げ、そちらをデフォルト状態にするだけですよね。
*
ただそこへ至る前の一つの大きなステップとして、
ここで感じられる安らぎ、やさしさ、満ち足りた感じに忠誠を近い、
そこにどれだけ全ての正しさを判定するための基準をおけるか
全てを決定する権威をゆだねることができるかという関門がある気がします。
たとえば、未来や過去の方を向くと、心配なことだらけ、問題だらけに見える。
でも、今この瞬間は安らいでいて、大丈夫な気がしている。
だから、本当に大丈夫。
一見、単なる能天気に見えるけれど、
それでも私はこの「大丈夫さ」に全てを賭けて、
この大丈夫な感じの中にずっととどまることに、目標を置き、
この大丈夫な感じの中から、全てを見て、解釈し、
(悔いの残る過去や、心配だらけの未来も、そのまま自然に、「大丈夫」に見直されるにまかせ)
それが言うことだけを信頼して、
そこからくるインスピレーションだけに従って、私は生きる。
そこまで言い切れるでしょうか?
*
そのときはじめて、今回のテーマ、「無罪性」も感じられてくる気がします。
というのも、聖霊の腕に抱かれ、安らいでいる時特有の、
このおおらかで、やさしさに満たされた気持ちの中に
全ての正しさの基準がある。
そう思うことで、
世界の中に見える「形」としての自分を見たとき、あるいは他の人や周りの状況を見た時
どうしても目に入る「まだまだダメ」「これはどうみても問題でしょう?」「間違ってるでしょう?」・・・・といった思い、その思いを背負った知覚の全てを、笑って見過ごせるようになるからです。
私もみんなも、無罪。神の中で、赤ちゃんの無垢さで、共にくつろぐ仲間だって思えてきて、
違いよりも一体感の方が優位にみえてきます。それが無罪性ですね。
*
先日終わった北海道リアルの会も、しみじみこの無罪性を味わう会になりました。
集まってくださったみなさまそれぞれに、
私もふくめ、尋常ならざる特有の「癖」があり、癒しの課題があり、
個性豊かに「ポンコツ」とも言える(笑)。
でもみんなで共に祈り、瞑想し、自然の中を散策しているうちに、
じわじわ感じられてくる一体感の方がずっと圧倒的で、
「ポンコツ? それで何だっていうの?」って笑い飛ばすような雰囲気が充満していて、
それがとても面白かったのです。
癖のある仲間同士の行動や気まぐれな天候からくるハプニングもあれこれありましたが、
すべては、形の上では、どうでもいい
だって内容レベルで、みんな、こんなに輝いているのだから!
すべては、ゆるされているのだから!
無罪性のそんな一局面を、満喫することができました。
*
安らかさそのものであるこの聖霊の視点で
全てのものを例外なく見て、
エゴ視点が牛耳ってるときには、恐れや攻撃の対象になっていたものもふくめて、
奇妙な癖やポンコツぶりを、おおらかに笑って見過ごしていく。
そんな技術を、私たち、今、学んでいるわけですが、
それは幸せな学習です。幸せなものしか目に入らなくなる学習だからです。
*
ただ、そこに一つでも例外を設けてしまうと、うまくいかなくなります。
今回扱いたいと思っているカメオ23のテーマは、その辺りの話です。
これは、テキスト14章7節(青い本では14章5節に入っている「贖罪の輪」)の終わりのあたりで書き取られたヘレンあてのイエスのメッセージを扱うエッセイなのですが、
当時のヘレンは、全ての人に対して総じて優しくしながらも、
たった一つ小さな例外をもうけていて、
ビルに対してだけ、しかもビルのたった一つの彼女にはどうしても見過ごせない、ゆるせない行動に対してだけ、怒りを感じたり、報復しようとするのがやめられなかったそうです。。
そんなヘレンに対して、攻撃性は小さなところに限定できるものではなく、すべての人、すべてのものとの関係に関わってくるとイエスは説きます。
この世界の中に、どんなに小さくても愛せないもの、ゆるせないもの、憎いものが見える限り、それは私たちが神の子の本性を受け入れず、そこから分離を企てていること、つまり風船上に瘤を作っていることを高精度のセンサーがするように、告げ知らせてくれているんですね。
分離を企てている以上、それは、すべてのものを一定の色合いに染め上げるサングラスのように、すでに見る世界すべてを、たとえば微かに憎しみの色に染め上げるというように、私たちが見るモノ全体に、すでに影響を与えているわけです。
センサーを発動させた、「これだけはゆるせない」小さな小さな領域は、実は、巨大な氷山の一角にすぎないというわけです。
*
敵意を小さな領域に囲い込めば、それ以外のところでは心穏やかに暮らせるだろうというのは、昔からあるエラーで、
たとえば、みんなで共通の敵を持ち、それと戦ったり、迫害することで、国やコミュニティの平和が保たれるというスケープゴート、贖罪の羊の考え方があります。
ターゲットになるのは特定の民族だったり、社会階層だったりさまざまですが、
上手く行った試しはなく、
攻撃性は囲い込まれるどころか、空気中にますます蔓延して、
犯罪率が上昇したり、戦争の規模が拡大したりしますよね。
モノの見方の問題は全般に及ぶので、特定のところに限定できないという単純な理由からです。
それよりずっと小さな規模になるかもしれませんが、私たちもやっていないでしょうか?
蛇や虫が苦手といった小さな問題から、どうしてもこの人だけは、こうした状況だけはダメというふうに、さまざまな形をとると思います。
実際に危害を及ぼすこともあるものを避けるのは当たり前のことで、特に問題はないと思うのですが、忌避する感じの中に心理的な恐れが入り混じっていて、過剰に反応している場合は、恐れを囲い込む領域になってしまってるかもしれません。
*
というわけで、昼の会、早速明日に迫ってしまいましたが、
読書会の準備していただける方がいらしたら、
自分にも恐れや憎しみを囲い込んだ領域がないか、自問自答してみてください。
それが見つかったら、それと接触して、心が動揺した時の様子を想像してみて、
その時、感じられる典型的な感情を感じてみましょう。
これとまったく同じ種類の感情が、かすかなりとも、いつも私の心の背景にあって、
普段の私の見るもの聞くもののすべてを染め上げていないでしょうか?
また、ヘレン当てのメッセージの中でイエスがすすめているように、
なぜ私はいまだにこんな領域を保持しているのか?
そこには、どんな目的があるのか?
これもぜひ自問自答してみてください。
分離し続け、他とは違う特別な私を維持するための最後の砦のように、この小さな憎しみが機能していないでしょうか?
*
今回の読書会は、こんな切り口からゆるしの精度を上げて、
聖霊視点の統一された知覚の中で、
世界の中で目に映る、ゆるしがたい、欠陥だらけの形を、
優しく、おおらかに見過ごす力を、また一段と磨いていけたらと思います。
またそれと連動して、もう一つ。定例会や北海道リアルの会でご紹介したばかりの
「そうなんだ」ワークをシェアすることができたらと思っています。
近所の檀家の娘を拐かして孕ませたと濡れ衣を着せられた時も、
そこで生まれた赤ちゃんを押しつけられた時も、
娘が真相を告白して、赤ちゃんを取り上げられた時も、
「おお、そうか」とただ一言だけ発して、
そこにあるがままの事態を受け入れた白隠和尚にインスピレーションをもらったワークで、
ワークブックレッスンの最初のあたりにある、
分離した私の目がでっちあげた何の意味もない私の知覚、私の思考の全てを、
「そうなんだ」の一言で見過ごして、
その奥にある実相の光、やさしさ、しずけさへと突破する練習になります。
とてもシンプルなワークなので、いつでもどこでもできます。
今、この瞬間に、自分が体験中の出来事が気にくわないと、
ほとんど気づかぬうちに、人や自分を責め始めたり、何とか事態を変えようと動き出したり、思いをめぐらせたりする癖がある方には、特に効果があるかもしれません。
そういった「癖」の発動に費やしていたエネルギーの全てを、
今、この瞬間のありのままの状況をそのまま受け入れながら、
その奥に見える「光」(やさしさ、しずけさ、真理の洞察・・・などと置き換えることもできると思います)を見ることに、注ぐ習慣をつちかってくれます!
補足***
今回はちょっと補足したいこと、あります。
無罪性(原語は、guiltnessness なので、sin 罪のない、無罪潔白の状態 sinlessnessを言っているのではありません。guilt、つまり罪悪感のない状態を指す言葉です)について、
つまり、あらゆる罪悪感から解放されるにつれて培われてくる視点、モノの見方について、
昼の部、夜の部とお話しさせていただいたり、
ビデオ撮影させていただいているうちに、
この解放のプロセスを、2段階に分けてみていったほうがいいかな?ってアイデアが湧いてきました。ビデオではそれが反映されていますが、オンラインの会、特に昼の部だけ出てくれた方にはお話しできなかったので、ここで補足させてください。
それは、無罪性がそこからの解放を目指す罪悪感に、段階があることとも関わってきます。
まずは、あらゆる罪悪感の根本原因になる、神、全てと一つの状態から分離したことで生じた根源的な罪悪感がありますよね。ビデオの中ではこれを罪悪感Aと呼んでます。
分離したといっても本当は即時に取り消されて、私たち、本当は分離していない(瘤といえども風船の中)なのですが、だからこそ、神の中で安らう幸福の記憶もあって、戻りたい、でも戻ると罰されるので、戻れない。つまり、分離した瘤の方にアイデンティティが移ってしまっていて、自分が自我だって思っているので、戻るのは破滅を意味するように感じられてしまう。
その葛藤をなんとか宥め、楽になろうとして、世界を投影し、防衛のストーリーを繰り広げますよね。
とはいえ、そのストーリーの全体が、分離の罪悪感からくる自分に対する有罪宣告とでもいうべき、分離の信念のフィルターにかかって出来上がっているので、いたるところで罪悪感を体験しますよね。
たとえば、「自分がこんなに苦しいのは~のせいだ!」と投影した結果、その相手を糾弾、攻撃したい気持ちがおさまらない、そのことからくる罪悪感。
あるいは、欠如感や無価値観をなんとか宥めようとして、いわゆる「いい人」や、有能で役に立つ人、愛される人、ゆたかさや力を誇示できるものを所有してる人になろうと頑張りますよね。で、高い理想を抱いたりするわけですが、それを実現できないことからくる罪悪感。
こうした世界のストーリーの中で体験する罪悪感を、ビデオの中では、罪悪感Bと呼ぶことにしました。
コースのようなスピリチュアリティの学習を始めて最初に自覚するのは、罪悪感Bの方ですよね。それが、単なる自分の思い込み、信念の所産だってことも見えてきて、「なんだ、こんなに我慢、我慢を重ねて、『いい人』を演じる必要なかったんだ!」「競争世界の中で勝ち抜こうと頑張ってきたけど、この先、走り続けても、先には何も無い。本当に幸せにはなれないんだ!」といったことが見えてきますよね。
で、罪悪感Bの手放しがまず始まります。その結果、リラックスした自然体になって、正直な自分の思いに忠実に生きようとし始める。これ、大切な第一歩ですよね。
ただこの後すぐに、罪悪感Aの癒しの方に進まないと、自分の癒しのことばかり考えている自己中心的な人、あるいは、インスピレーション、ガイダンスに従っていると言いながら、気まぐれに従って、周りの人を振り回すマイペースな人になりかねません なんだか、そんな人、見たことあるような気がしますよね。もちろん自戒をこめて言っているのですが(苦笑)。
でも、即座に罪悪感Aの癒し、分離そのものの癒しに進むことができたら、周りの人との一体感が強まります。人のことが自分のことのように感じられてきます。それが、新たな共感の基盤、社会性の基盤になります。マニュアル編の最初のところに、「神の教師」の資格として、「なぜかどこかで、自分の利害を他者の利害から離れたものと見ないという、意図的な選択をした」とありますが、それですね。
というわけで、今回は罪悪感BだけでなくAも癒す~つまり「意図的に」分離そのものを癒し、周りの人との一体感をしっかりと感じ、周りの人を、一緒に、神の腕の中で安らぐ仲間と見る視点を大切にしながら、罪悪感から解放された無罪性の状態を楽しむことができたらなって思っています。
おすすめワーク***
1、小さい、ちょっとしたところに囲い込んでるゆるしの課題、見つけてはゆるすってこと、続けてみましょう。
虫に対する恐怖といった些細で無害に見える心の動揺も、奥をみていくと、意外に深い分離感につながる可能性、大ですね。
例えば私は苦しむ動物が見ていられない・・・との心の動揺を、ジャッジしない、やさしい聖霊視点でありのままに感じているうちに、あえて言葉にすると(言葉にして安心するより、あえて言葉にするなら、こうなる生の感情をとらえて感じることの方がずっと大事なのですが)、死の不安や、誰も自分のことをわかってくれない(動物は言葉が喋れませんものね)孤立、孤独のおそれなど、出てきました。
意識的には、本当の私たちは死ぬことはないこと、あるいはつながっていて、孤立したくてもしようがないことがわかってるつもりになってましたが、死や孤立にまつわる信念、潜在意識に残ってたんですね。そうしたものを洗い出してく、いいきっかけになりました。
*
カメオの中で、イエスがヘレンにアドヴァイスしてるように、なぜ自分はこの反応の癖を手放さないんだろう?と自問自答してみるのも、超おすすめです。
ただ、その前に、感情からジャッジを外し、ストーリーをはずして、直接体験にしてから、
注意深くじっと、ありのままになぞるように感じてみて、
「な~んだ、これって、誰のせいでもない、何のせいでもない。自分でやりたくてやっているに過ぎないじゃないか?」
「こうすることに、ただ、中毒してるだけじゃないか?」
ってことが、はっきり感じられてから、
つまり自分があくまでこれを選択しているにすぎないってことがはっきりしてから
この自問自答をされるといいかもしれません。
リアルタイムのオンラインの会の中では、
このワークと、これから説明するおすすめワーク2、「そうなんだ」ワークをやっているうちに、
ペリーさんのカメオエッセイ中の譬え話に出てくるような「野獣」を見つけたってシェアしてくださった方もいらっしゃいました。
自分を責めたくて責めたくて仕方がない、獰猛な野獣が自分の中で暴れていて、
貪欲に餌を探し回るように、どんな責めネタも、絶対見逃さずに食いついて、責め始める野獣だそうです。
すごい成果だと思います。
あとは、この野獣に対してジャッジせず、
「そうなんだ」と、他人事のように引いてみながら
同時に、無条件の愛で優しく包み込むような聖霊視点で眺め続けるうちに、
だんだんそこから力が抜けて、可愛らしい猫になるような変容が起こるかもしれません。
2、そこにある思いに、とりあえず「そうなんだ」と言って、ジャッジを止めてじっとする「そうなんだ」ワークも、ピンときたら、ぜひ、続けてみられてください。
ビデオでご紹介しているバージョンのほか、
普段生活していて、少しでも心が動いた時、そこにある思いに、「そうなんだ」と言ってしばらくじっとするというのもおすすめです。
あるいは、ゆるしや温泉ワークをする前に、そこにある思いに対して、まずは「そうなんだ」と言って、ジャッジを止めてからはじめるようにするのも、効果的かもしれません。
特に、「ジャッジしちゃいけない」って、頭では十分、わかってはいても、無自覚のうちに、条件反射的で、ジャッジをはじめてしまう癖がある人には、効くと思います。
感情が出た瞬間、ジャッジする隙を与えず、即座に「そうなんだ」といってジャッジを止める。
て、じっとすることが、そのストッパーになるんですね。あらゆる思いに対して、まずは「そうなんだ」と言ってじっとする。それが習慣化して、自動的にジャッジを止めることができるようになるまで、集中的にやってみられるのもいいかもしれません。
もちろん、すでにジャッジ始めてしまった時、たとえば、自分が怒ってることに怒ったり、ジャッジしてしまった自分をジャッジしたりと、自責の悪循環にからまって抜けれなくなってしまった時も大丈夫。
それに気づいた瞬間、そんな自分のありのままの状態に対して「そうなんだ」って言ってじっとしてみてください。
*
このワークでは、「そうなんだ」と言った後、ジャッジを止めてじっとした時、自然に心に広がる余韻を味わうようにおすすめしています。
これを繰り返すにつれ、この余韻、安らぎや静けさの感覚の中に、すでに聖霊がいること、
私たちの知覚を変え(だんだん実相の光が見るもの全体に染み渡ってきたり)、
思いを訂正したり、新たなインスピレーションを与えてくれるのに気づかれるかもしれません。
「心の訂正は自分でやる」「自分で自分を癒そうとする」癖がついているせいで、
ゆるしやいやしが滞るタイプの人には、きっとこれも、効くんじゃないかと思います。
ジャッジが止まり、思考が消えると、真空が空気を吸い込むように、科学的な必然性で、この空白に、実相の安らぎが満ちること。そのためにはこちらで何もする必要もないこと。
そしてこの安らぎそのものが、心の訂正もやってくれるので、それを素直に受け入れること以外、こちらでは何もする必要がないことがはっきりするからです。
あまりにシンプルなので、自分でやる余地ゼロのワークだからです。
