ヘレンのノート版ACIM読書会

ヘレンのノート版ACIM読書会40回目 自分が「憎しみを抱いていること」を、軽やかに受け入れる

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2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。

会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。

もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。

ヘレンのノート版ACIM読書会 これまでのタイトルの全て一覧できる目次のページはこちらからお入りください。

*使用テキスト***

今回も、紫の本にはあるけれど、青の本では削除された重要な部分の一つを扱います。

私がざっくりと訳した試訳は以下のリンクにあります。


紫の本12章の3節目に入ってるThe Journey into Fear 「恐れの只中への旅」ここをクリックすると私の試訳が出てきます。

それについての解説カメオエッセイ21 ここをクリックすると私の試訳が出てきます。

*予告編*

当時、険悪をきわめていたビルとヘレンの関係に対するコメント、アドヴァイスの形をとっていることもあり、
個人的な性質が強いので、青の本では削除されていますが、

ここで書かれていることや、それと関連する伝記的事実を踏まえて12章全体を読み直すと、
この章全体が、新たな光の下に浮き上がり、理解がグッと深まるところ、あります!

何より、闇の只中にとびこむことでこそ、
光に達することができるという

コースの根幹をなすテーマにズバリと触れるところでもあるんですね。

このテキストのテーマは、
自分が抱いている憎しみを、正面から見直すこと。

そのために、とにかく、正直になること。
もう何も隠さない、
聖霊の癒しの光を、心の奥の奥まで届かせるような
透明性に達することです。

そうすることで、愛の全体性、つまり、やっぱり愛しか存在しなかったんだってことを、確かめることですね。



このテキストの中で、イエスは、繰り返し、自分がどれほど「憎しみ」を抱いているか、正直に認めるように諭します。

え? 憎しみ?? コースを学習しはじめてから、おかげさまで心が穏やかになって、憎しみなんてここのところ、抱いたことなんてありません・・・という方、多いかもしれません。

でも、本当にそうでしょうか?  エゴは、常に
「~が憎い!」と言う思いを、すかさず、
「~のここが悪い」「ここが間違ってる」「ここが問題だ」に、
すかさず、翻訳しなおします。

それはたとえば、物事は、社会は、人というものは、「こうあるべきだ」「あああるべきだ」、と、「正しさ」を振りかざす理論武装の形をとったり、

「ここさえ直れば、いい人なのに」「昔は良かったのに」と、持ち上げながら貶めるといった、礼儀に適ったおだやかな形をとるかもしれないし、

「ここに改善の余地があることを、この人たちに教えてあげなきゃいけないな」と、
善意からの建設的提案の形をとることさえあるかもしれません。

あるいは、単なる微妙な違和感、緊張して、落ち着かない、くつろげない感じ、心許せない感じ、人に邪魔をされている感じ・・・・といった繊細な反応の形をとるかもしれません。

そんなふうに、ありとあらゆる覆いをかけて、穏やかにごまかしていますが、
どこまでも「正直」になって、こうしたあらゆる「ごまかし」の覆いを取り払って、
その奥にあるものを直視すると、「憎しみ」が現れてこないでしょうか?

つまり、

この人の、この状況の・・・「今、この瞬間」のありのままを 
抹殺したい、取り除きたい!

という残虐な攻撃性が見えてこないでしょうか?

相手が何であろうが、どんなであろうが、とにかく気に食わない。盲目的で無差別の攻撃性です。

そんなものを自分が抱いているなんて、認めるのは、はっきり言って、ショックだし、
そこまで正直になるには、かなりの勇気がいりますよね。
でも、私たちが本気で、心の底から癒されたいのであれば、避けて通れない道です。



今回は、このあたりの癒し、徹底的にやれればって思ってます。

というわけで、準備してくださる方は、
自分の中にある隠れた憎しみ、取り上げておいてください。
「カムフラージュして、穏やかで、もっともらしい姿をとってはいるものの、一皮むけば、単なる憎しみでしょう?」って思える思やつです。

今この瞬間のありのままに安らげない時、私たちはいつも、多かれ少なかれ、この種の憎しみがそこにうごめいています。



この種の、潜伏した「憎しみ」を痛感することが、なぜこれほど重要なのか?
これが、「向こう側」の問題であること「この人が悪い」「この状況が悪い」という姿勢を撤回して、

こちら側、「自分の中」の問題として、引き受ける、
決定的な一歩になるからです。

同じことを、非二元的な言葉で言い換えれば、「直接体験」ですね。
ストーリーを外し、「向こう側」に見えること全てを忘れて、今この瞬間に直に感じられることだけを残すってことでもあります。



そうしながら、この「憎しみ」の恐ろしさ、醜さの全貌を、あますところなく、隠すことなく、直視できればできるほど、いいわけですが、

同時に、聖霊、イエスとともに、ジャッジを知らない、穏やかな視点、無条件の愛の視点で見る・・・そこにあるものがどんなに醜くても、それがありのままであることをゆるす・・・・というのが、この瞬間、何より大事。

そうしないと、「憎しみ」を「憎む」・・・という悪循環にはまって、逆にエゴを強化させてしまいます。

ジャッジも訂正も、すべて聖霊やイエスにおまかせ



「正直になる」といっても、自分が憎しみを抱いているのに気づくのは、まだまだ序の口で、そのまた奥にある「傷つきやすさ」に触れるのも、大切ですね。

といっても、これは自然に進むプロセスで、
聖霊、イエス、気づきの空間・・・・のやさしさに包まれながら、
そこにある「憎しみ」を、その残虐な攻撃性のまま、
でも同時に、どこまでも愛情深く、穏やかに感じるうちに、
攻撃性の防衛の武装が、ゆるみ、ほぐれて、
そのさらに奥に隠されている感情が現れてきます。

あえて言葉にすると、自分は弱くて、傷つきやすくて、見捨てられていて、誰も顧みてくれない・・・といった感覚ですが、

本当に感じることが肝要です。触れれば飛び上がるほどの痛み、むき出しの分離感です。

憎しみや怒りのような攻撃性を含む感情を抱くたびに、
そのもう一つ奥にまで手を伸ばして、そこに隠れているこのむき出しの「痛み」に、
たとえほんのちょっとでも、必ず触れるようにする。

その習慣を培えば、心がどんどんほぐれて、癒しが加速していきます。

と同時に、
まずは、この、分離の痛みにびくびく、おびえ震える無力な私がいて、
これほどの脆弱で、傷つきやすい私を何とか武装して守るために、
やみくもの攻撃性が出てきて、
それが「憎しみ」や「怒り」の形をとっていたに過ぎなかった・・・・
ってこともわかってきます。

それが、露わになればなるほど、
裁くことなく、あわれみ、いつくしみ、いたわりながら、
ジャッジすることを知らない赤ちゃんの無垢さで、静かにそれを感じてあげてください。



以上は、青の本では削除されているけれど、紫の本では12章の3節目に入ってるこの「恐れの只中への旅」を読んだ時にいえることですが、

この文章を読んだり、その文章の背景になった伝記的な事実を踏まえた時、興味深いのは、
この章、12章中に話題になっていることが、なぜこのタイミングで、ここで語られているのか、手に取るようにわかってくることです。

この章が筆記されている頃のビルとヘレンの関係が、どうしてそんなに険悪だったのか、
そこにある葛藤のパターンを見ると、

ビルの方では、無価値観をまだ引きずっていて、
イエスが語るコースのティーチングは理解できても、自分でそれができるとは、信じていない。
でも、ヘレンだったらできるだろう。ヘレンがこのコースを学んで進歩することで、自分を救ってくれるだろうって思ってる。
つまり心のどこかで、自分の救いは彼女にかかってるって思ってるわけです。
だから、彼女が自分の期待を破って、コースの学習もサボりがちだったり、イエスの言うこともきかず、エゴむき出しになることがあったりして、進歩しているように見えないと、
やたらと頭に来たり、彼女をコントロールしたくなるというわけです。
典型的な「特別の関係」ですね。

ヘレンはヘレンで、自分は人に利用され、こきつかわれ、搾取されるという、被害妄想的な恐れを伴う分離感に悩まされている。
だから、ビルが自分に依存してるって感じるたびに、耐えられなくなるわけです。

そんなふうに、表面的には異なるものの、一皮剥けば、二人とも、自分の力は限られているという、無力感、欠乏感を抱えています。イエスの言葉を使えば、エゴと同一化した人特有の、分離からくる「貧しさ」に悩まされてる。青の本の3節目(紫の本では4節目)でいきなり、「貧しさ」について語られているのは、そのせいなんですね。

ビルの方は、この「貧しさ」から、ヘレンに依存して、助けてもらおうとするわけですが、
ヘレンはヘレンで、この「貧しさ」から、ビルを助けてなんていられない。時間的にも体力的にも、そんな余力は自分にはないって、思ってる。

「助けを求めてくる人がいたら、助けてあげなさい」という、この章でも、もっと前の章でも繰り返されるテーマは、もとはと言えば、そんなヘレンに対して語られている言葉だったって推察されます。

また、同じく青の本の3節目(紫の本では4節目)で、
この世界の中にあるものに投資(invest 日本語訳では「思い入れを投入」)しても、
リターンは得られず、貧しくなるばかり。
だから、投資するなら実相に対してにしなさいといってるあたりは、
ビルをいましめている言葉のようにも、聞こえてきますね。



もちろん、私たちにとって重要なのは、
ビルやヘレンについて、根掘り葉掘り、詮索することではありません。
二人の具体例に基づきながら、
二人とと似たり寄ったりの問題を抱えている私たち自身を、
この機会をかりて、同じくらい具体的に、癒していくことです!

というわけで、もしよかったら次のような点について、あらかじめ、自問自答しておいていただけると、良いかと思われます。

1、
ビルと同じように、自分もまだ、「誰か」や「何か」に、、幸せにしようとしてもらっていないか? 
この世界の中に見える特定のものが、特定の形をとってはじめて、自分は救われる、幸せになれると言う思い込みを、抱いていないだろうか?

この世界のいつか、どこかで、何か完璧な人や物や状況が実現し得るって、まだ心のどこかで信じていて、それが実現することに、自分の救済がかかっているというふうに、救済に条件付けをしていないだろうか?

2、
ヘレンと同じように、私も、自分のリソース(時間、体力、お金・・・)は限られてるという信念を持っていて、

人に助けを求められたときに、
損をしている、こきつかわれている、攻撃されている・・・といった感覚に圧倒されて、
なかなかYesと言えないところは、ないだろうか?

聖霊やイエスと共に働けば、「奇跡に難易度の違いはない」こと、
どんな助けも、厭わない、ゆたかな気前の良さの中にいれることを、ついつい忘れてしまい、
身体と同一化した、分離した人特有の「貧しさ」の中で、ケチケチしてしまう癖はないだろうか?

3、
一言で言えば、状況についての自分の「解釈」に囚われて、
そこに唯一実在して、いつも微笑んでいる
実相の愛に覆いをかけて、陰らせていないだろうか?

ってことですね。

おすすめワーク***

 ACIMは楽譜のようなもの。 それぞれの学習者がそれを生きることで、 そこからそれぞれの音楽のパーツを演奏することで、意味を持ってくるって思ってます。

 そのためにも、皆さん一人ひとりが、ここで学ばれたことを、自分の生活の中で、どう活かし、生きていくかを自問自答しながら、学習を進めていかれると、これほどうれしいことはありません。

 ビデオを見ながら、 そこで語られていることの中に、 今の自分の学びのプロセスで、活かせそうなことがあったら、 ぜひ、試してみてください。

以下のおすすめワークは、その例に過ぎません。

全てやらなきゃいけないというわけではありません。

それはあなたの中の「教師」と相談しながら、インスピレーションを感じられたら、試してみられると、幸いです。

****

1、今この瞬間のありのままの状態に対する不平不満、微かな違和感も含め、自分が抱いている「憎しみ」を、穏やかに、軽やかに癒していくってこと、やってみましょう。

向こう側に見えるものについて、あれこれジャッジして、改善のための行動に乗り出す前に、

自分が感じている不快感を、直接体験でじっと感じては、ゆだねる、温泉に浸して癒す習慣、この機会につけてしまいましょう。

そうして、聖霊視点になってから、その時に自然に感じられるインスピレーションに従って動く。

そうすると、人生ずいぶんシンプルになるのに気づくかもしれません。

2、特別性の癒しの精度をあげていきましょう。

自分の幸せ、癒し、救済・・・が、この世界に形として見えることに規定されていると思って、そこに、思いや行動をつぎ込んでも、見返りはわずか。不当たり投資で、心の豊かさが目減りして、欠乏感が強まっていきます。

逆に、この世界で、形として見えることには期待をかけるのはやめて、形を超えた実相、神の愛とつながることに、フォーカスすればするほど、この世界を通して、実相からくる平安や愛、よろこびの「質感」をキャッチする感受性も高まって、心豊かになっていきます。

というわけで、「これって特別性かも?」と気づくたびに、手放していくってことやってみましょう。

リアルの会では、「是非ともそれが必要」と思う気持ちの裏にある、「手に入れることができなくなったらどうしよう?」という恐れにアクセスして、それを聖霊にゆだね、温泉に浸す方法をとりましたが、

ビデオでは、試みとして、逆に、自分が特別性を抱いているものを求める気持ちの奥にある、そこに期待している幸せを、まずは、たっぷり味わってみるという方法をとってみました。

その後に、この幸せは、もしかしたら、これが手に入らなくても、感じられるものじゃないか?

自分の中にもともと備わってるものではないか?

これを感じるために、そんなに苦労して、のぞみを実現させる必要はあるんだろうか?

と自問自答してみるんですね。

その方法でも、特別性の手放しが進む可能性、あると思います。

特別性を抱いている時に、私たちがそこに投入している願いが、すでに実相の愛や喜びにつながっているってところが確認できて、いいのではないかしら?

大きな特別性を抱いていらっしゃる時には、この方法をとられるのもいいかもしれません。

3、助けを求められた時に思わず、躊躇してしまうヘレンの癖、自分にも覚えがあるなって思われる方がいらしたら、そういうシチュエーションにあうたびに、癒すってこと、やってみましょう。

助けるか助けないか・・といった行動レベルに注目せずに、

自我視点を聖霊視点にする、視点の変化に焦点を向けるとうまくいくと思います。

助けを与えることを躊躇するのは、身体と同一視することで、リソースの有限性をひしひしと感じながら、欠如感に突き動かされる自我の目線になったからです。

そこにある恐れを手放すことで、おおらかな聖霊視点になるのが、重要。

実際に助けるかどうか、どのように、どんなタイミングで助けるかは、聖霊視点になったときのインスピレーションに従うといいと思います。

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