ヘレンのノート版ACIM読書会

ヘレンのノート版ACIM読書会25回目 安心する「ため」にではなく、安心「から」動く

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2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。

会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。

もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。

ヘレンのノート版ACIM読書会 これまでのタイトルの全て一覧できる目次のページはこちらからお入りください。

今回使用したテキスト****

紫の本 第二章 正しい防衛と恐れからの解放、第1節 所有の本当の意味 (青の本にはありません)、1節の15段落目から17段落目まで。ここをクリックするとこの節の私の試訳が出てきます。その該当箇所を参照してください。

この箇所は、邦訳もされてる青の本(FIP版)、ないのですが、

青の本にもある、参考になる箇所として、

テキスト18章7節「私は何もする必要がない」。分離を癒すためには、「何をする必要もなかった!」と悟ることが、自己流救済計画の癒しの基本になりますが、

とくにこの最後の8段落目。忙しい活動の最中にも、とどまり続ける「休息の場所」この中心から「肉体を罪なく使う」と言われるあたり、癒された後にどんな生活が待ってるか、その指針になります。

次の8節「小さき園」。分離を癒すことで、自己流救済計画を手放して、神の救済計画に戻るというと、なんだか大袈裟に聞こえます。

でも、ここにあるように、大海の中のたった一つの波が、1人で頑張って、海になろうとして、大海に対抗しようとしてたことに気づいて、自分は大海の一部だったことを認める。その全体の中で、然るべき役割を果たすってことに、すぎないわけですね。

紫の本(CO版)では、「私は何もする必要がない」は、22章7節目に、「小さな園」は、18章7節目にあります。

*予告編****

人生を振り返った時、本当にやりたいことがあったけど、できなかったって思えること、ありますか? 

その理由について考えてみましょう? こんなこと、あんなことがあったせいで・・・つまり、諸々の状況・事情のせいで、あるいは、自分の能力、才能が足りなくて・・・といった理由が、思い浮かぶかもしれませんが、しばらく、立ち止まって「本当にそうだろうか?」って自問自答してみてください。

すると、多くの場合、実のところを言うと、
挫折する前に、あきらめてしまってた!
真っ向から取り組む前に、敵前逃亡してた!
「どうせできない」と思って妥協して、もっと楽な道を選んでたにすぎなかった!
ってことに気づくかもしれません。

私たち、分離からくる苦しみ、そこからくる欠乏感をまぎらわすために、いろんなことをします。

その中には、これが本命。これで自分は救われる。こんな自分の人生にも、価値があった、意味があったって言える・・・って、思いつめながら取り組むプロジェクトもあると思います。

この会で私が、「自己流救済計画」と呼ばせてもらってるものです。

自己流救済計画に取り組んでる時って、出てくる恐れの量も半端ないですよね。

私たちが、何がなんでも、絶対直面したくない恐れの出どころ、分離そのものの前に立ちはだかる最後の要塞みたいなところがあるからです。

正面衝突して、失敗すると、分離の苦しみがどっと噴き出してきます。
そうなると、もう、逃げ場がないぞ・・・と思うので、
それを避けて、敵前逃亡したり、妥協して、その周りをぐるぐる回るだけの迂回ルートをとりたくなるんですね!

でも、本当に私たちが恐れているのは、もっと深いところにあるって言えるかもしれません。
仮に、自己流救済計画が大成功をおさめて、欲しかったもの全て手に入れたとしても、
夢見ていた救いは、そこにはなかったってことに気づくこと。
これを本当は、一番怖がってるのかもしれません。

富や名声の頂点まで上りつめた人が、あんまり幸せそうに見えなかったり、
酒やドラッグに溺れたり、自殺したりすることがあるのは、そのせいなんですね。

ようするに、自己流救済計画って、どう転んでも恐ろしいところ、あるんですね。



今回の読書会では、その中でも、挫折する前に諦めて、敵前逃亡してしまうケースに焦点をあてて、それを一切合切、癒してしまうってところに、ゴールを設定したいと思います。

イエスは、コースの筆記において、ヘレンやビルが親しんでいたフロイト心理学の術語を使うことが多いのですが、テキストではこれを「否認」denial と言う言葉を使って、説明してます(フロイトがこの言葉で指していたことと、イエスがこの言葉を使って言わんとしていたことが、どれだけ一致してるかといった問題を扱うと、脇道にそれるので、とりあえず、置いておいて、イエスの言わんとしてることに沿って、この言葉使わせてください)。

先日、定例会で、参加者とこの問題について話し合ったのですが、
最初はピンと来なかった感があったものの、
話し合えば合うほど、みんな、「心当たり、あるある・・・」って、ことになりました。

つまり、抽象的に見えるのは、見かけだけ、ちょっと考えると、結構、どこにでも転がってる問題だって思います。その「ちょっとした間」をつくるためにも、皆さんにも予習していただけるといいかもしれません!


*予習していただける方に

ステップ1:これさえうまくいけば、幸せになれる!

分離からくる欠乏感(愛されたい、承認されたい、価値を認められたい・・・という思い)が満たされるって思って、

これまでやってこられた自己流の「救済計画」を、思いつくままにあげて、

間にスペースを開けながら、箇条書きに列挙してみてください。


ステップ2:そこであげられた自己流救済計画プロジェクトと自分との関わり方の中に、「否認」的な要素が見られなかったかどうか、自問自答してみてください。

それについて、気づかれたことがあったら、メモしてみてください。

「否認」の例としていくつかあげますね。

テキストに書かれているのは、ヘレンとビルの例ですが、2人とも学者として、「素晴らしい、独創的な知識を手に入れ」発信する、という自己流救済計画、持ってました。と同時に、そこからくるおそれもあって、それがヘレンは、「読書恐怖症」として現れ、ビルは「人前で話すことが苦手」という否認の癖がありました。

そうやって、計画遂行にストップをかけることで、
「うまくいかなくても、うまくいっても恐ろしい」自己流救済計画の限界、矛盾につきあたって、
その奥に隠れている分離に直面することを、避けようとしてたわけですね。

よくある例として、たとえば「勉強しない」受験生の多くは、
本当に勉強が嫌いだったり、勉強ができないのでそうしてるというより、
学力で人の価値が決まってしまうという社会通念に耐えられないからなんですね。
だったらもう、最初っから投げ出してやる!というわけです。

でもこの行動って、この社会通念を、分離からくる自分の欠乏感を癒す救済計画として一旦、受け入れていないと出てこないですよね!そんなのものともしなければ、もっと自由に「勉強」に関われるわけです。

あるいは、本当は自分は絵を描きたい、ミュージシャンになりたかったのだけど、周りに、「そんなので食えるか!」と言われてあきらめて、就職してしまった。あるいは、それとちょっと関係あるけれど、もっと安定した仕事についた。でも今振り返ってみると、本当のところは、本気でやって、自分の才能の限界に直面するのが怖くて、敵前逃亡してただけだったんだ。その口実として、周りの言葉に従っただけなんだ・・・などなど。

あるいは、本当に好きな人と結ばれて、うまくいかないと、つらすぎるので、その人はあえて避けて、「そこそこ」好きな人、ちょっと妥協した相手、これくらいが分相応かな?って思える人とつきあいたい、結婚したいと思う心の動きもそうですね。

女性の場合、実力を出しすぎると、女らしくない、お嫁の貰い手がいなくなるという社会通念がありますよね。それを、否認のための口実として使って、そこそこの学歴やキャリアでやめておく・・・って形で出るかもしれません。

否認が隠してる恐れが、すでに投影としてたくさん出ていて、周りに自分を非難する人、攻撃する人が見えるので、それとの格闘にもっぱら注意が向っていて、奥に「否認」があったって、気づかないようなケースも多いかもしれません。

マンデラ大統領は、アパルトヘイトで苦しんでいる黒人同胞に向かって、「あなたが恐れているのは、本当は圧政者ではない。自分自身が本当は持っている、秘めた力なんだ」と語りかけました。

つまり、神の子としての私たちがすでに嫌というほどパワフルで、愛されていて、満ち足りているか、それを受け入れて、分離が癒されるのを、本当は恐れているというわけです。

それを恐れて、「そんなのないぞ」と「否認」して、「弱い存在」というコンフォートゾーンにい続けるために、圧政者を利用してはいないか。

つまり、圧政者の姿は、自分の恐れを、外側に向かって、投影した結果、見えているに過ぎないのではないかって言ってるんですね。

ここまで根本的に見ると、あらゆる投影の奥に、「否認」があるってことになってしまいますね。



あなたはどんな「制限」を自分にかけて、

それを人や状況のせいにしながら、

とはいえ密かにそこをコンフォートゾーンにしながら、
「そこそこ」の状態で満足しようとする傾向、あるでしょうか? 



というわけで、次は、こうして、あがってきた否認のドラマの一切合切を、癒していくだけです。

これまで、こうした自己流救済計画からくる恐れとの格闘で、私たちがどれほど苦しんできたかを考えると、
何だか途方もないことを企ててるような気がしますが、

ほんのたった一つのことに気づいて、それをこつこつ実践すればいいだけです。

ここまで、一緒に歩いてきてくださったみなさんには、釈迦に説法、もうお分かりだと思いますが、

分離からくる欠乏感は、救済計画の遂行によって癒されるのではなく、
自分の内側に向かうことで癒される

ってことです。
そして正しく、内側に向かうことができれば、
それを癒したくて癒したくてたまらない、心強い力と合流できることですね。

というわけで、


ステップ3:先ほど列挙してもらった、この「否認」の中に隠れた分離感を、気づきの2→3で感じながら、あるいは聖霊にゆだねながら、癒していってください。



自己流救済計画へと私たちを駆り立ててきた分離の欠乏感が癒されてしまったら、
このプロジェクトにこれまで傾けてきた膨大な努力、お金、時間、みんな無駄になってしまうの?

そういうの全部手放して、達観した世捨て人のようになって、その後生きることになるの?

そんな心配を抱く人もいらっしゃるかもしれませんが、大丈夫です。

コースのプログラムに沿って、うまく癒しが進むと、
自己流救済計画の無意味さに気付かされた分、
今度は、神の救済計画の中で、生きる人生がはじまります。

ゆるしを重ねるたびに、それは少しずつ、自然に進みますが、
今は、神の救済計画に、ほぼほぼ従って、ミラクルワーカーとして生きてる・・・って状態になっても、
外側から見ると、やってることは、癒される前とあまり変わらないというのがほとんどじゃないでしょうか?

とはいえ、そこから、
「分離のおそれを直視しなくて済むために築いた最後の砦」という性格が、消えた今、
思いつめたところが消えて、ずいぶん、気楽に、やれるようになってるし、
かえって、のびのびと、持てる力を存分に発揮できるように、なると思います。

それまで、分離から来る欠乏感、飢餓感に駆られて、味わうこともなく、ガツガツと機械的に詰め込むようにやってたことが、
一つ一つ、味わいながら、楽しみながら、丁寧にやれるようになってるのに気づかれるかもしれません。

欠乏を満たすというより、
杯になみなみと注がれたものが、自然に周りに溢れ出ていくように、動けるようになります。

そこに自分の価値がかかってる・・・と言う切羽詰まった気持ちがなくなって、
遊びに興じてるような感覚で。

少なくとも私の経験振り返ってみる限り、これまでやってきたこと、つちかってきた知識やスキル、ほとんど生かせてるし、
逆に、自己流救済計画に始終していたときより、
自分の持ってる力を惜しげなく全て投入して、
のびのびとやれてる気がしてます。
これもみなさんのおかげだと思って、感謝しています



「否認」がらみの自己流救済計画の中で、私たちがどれほど、自分のやりたいこと、できることに、自分から制限を課してきたか、
自分を、自作の監獄の中に自分を閉じ込めることで、
人生を「そこそこ」の「妥協の産物」に貶めてきたか、
考えてみてください!

先に分離感を癒すことで、
怖いもの知らずの無邪気さ、
「当たって砕けろ」の精神で、
のびのびと持てる力を発揮して、
チャンスを全て利用していければ、
人生、どんなに、楽しくなったことでしょう。

今からでも遅くはない!

ということで、今回は、このあたり、徹底的に癒すことができればって思ってます!

*おすすめワーク

ACIMは楽譜のようなもの。 それぞれの学習者がそれを生きることで、 そこからそれぞれの音楽のパーツを演奏することで、意味を持ってくるって思ってます。 

 そのためにも、皆さん一人ひとりが、ここで学ばれたことを、自分の生活の中で、どう活かし、生きていくかを自問自答しながら、学習を進めていかれると、これほどうれしいことはありません。  

ビデオを見ながら、 そこで語られていることの中に、 今の自分の学びのプロセスで、活かせそうなことがあったら、 ぜひ、実践してください。私の方で、おすすめしたいワークは以下の2つです。 すべてをその通りにやらなければいけないというわけでは全然ないです。 ただ、「今の自分に必要かも?」ってピンと来られるものがあれば、ぜひ!  

 聖霊の導きの下、自己流にアレンジしながらされるのもいいと思います。

おすすめワーク一つ目は、「自己流救済計画」という切り口で、癒し、ゆるしをすすめることです。

心の動揺の背後には、いつも、「こうすれば」、自分は幸せになる、分離感が癒される。

そのためには、「ものごとはこうあるべき」「自分はこうあるべき」「人はこうあるべき」といった自分流のプランがあり、そのプラン、その期待が裏切られたことに対する幻滅があります。

心の動揺があるたびに、

1、そこに隠れていた自己流救済計画を暴くということをやってみましょう。

合言葉は、「どうなれば、自分は、ハッピーだったのか?」ですね。

2、次に、その救済計画をすすめることで、埋めようとしていた欠如感、分離感を暴きます。

それをあらわにするための合言葉は、先ほどの問いに対する答えに、

「さもなければ?」を、つけることです。

たとえば、人に冷たくされたと思って、ショックだった場合。

「どうなれば、自分はハッピーだったか?」 「女王様のように大切に扱って欲しかった」

「さもなければ?」「誰も自分を構ってくれない。愛してくれない。寂しい・・・」

3、そこで出てきた分離感を気づきの2→3で包んで癒していきます。

4、癒されたあとに広がる安心感、やさしさ、ゆたかさ・・・の中にたっぷりひたります。

すでに自分はそれをいやというほど持ってることを確かめた後、

5、そもそも、こんな救済計画必要だっただろうか? と自問自答します。

何にもしなくても、もう十分、安心していて、愛されていて、ゆたかだ・・・って確かめられたら、大成功(うまくいかない場合は、3に戻ってください)。

この満たされた安心感の中で、1の動揺が生まれた場面に戻っていき直したら、体験の質がどう変わるか、想像してみてください。

6、この救済計画に否認が含まれているときには、

否認によって、直視することを、避けようとしていたこと、

想定される最悪の事態が起きている様子を想像しながら、

それを、この癒され、安らいだ感じ、聖霊と一緒にいる感じの中で今こそ直視し、見届けるってことやってみましょう(それができない時も、3に戻ってください)。

もう一つのおすすめワークは、癒しのプロセスの中で闇が出てきた時に、試してほしいことです。

否認も含むほどの救済計画の奥には、相当の分離感が隠れてることが予想されます。

そこに眠っていた分離感が、浮上して表に出てくるのは、癒しのプロセスという点から見ると、とてもいいこと、おめでたいことではあるものの、

一時的に辛い体験をされるかもしれません。

そんな時におすすめなのが、あえて、今この瞬間に、直接体験されることだけにフォーカスすることで、闇を光のエネルギーに転換できることができないか、試してみる、以下のワークです。やり方は以下の通り。

たとえば鬱が出てきた場合、

1、まず抵抗をやめます。これを癒す、改善するということをやめて、

今この瞬間感じられるものをまずは、そのまま受け入れて、

2、直接体験にフォーカスすることで、思考をシャットアウトする。

この鬱、放っておくと、そこから「~のせいだ」とか、「~な私はやっぱりだめだ」などなど、どんどんネガティブな思考が出てくるかもしれません。またそこからいろんな行動(事態を改善しようとする行動など)が出てくるかもしれません。

でもそうすると、タイムラインのストーリーに入ってしまい、癒しの力の源泉である聖なる瞬間に入れません。

そこで、そこから思考が紡ぎ出されるのを食い止めるためにも、

今この瞬間、これがどう感じられるか、それを観察することに100パーセント、集中してみてください。

3、すると、鬱が全然感じられないスペースが、心にちょっと開くのに気づかれるかもしれません。

そこに集中してみてください。眉間に注意を向けながら、息をちょっと凝らして、丹田に力を入れるようにするとうまくいくかもしれません。

そうしているうちに、今この瞬間の、醒めた気づきの、光輝く中心点みたいなものができていきます。この中心点は、鬱の影響を全然、受けません。

そのままじっとしていてもいいと思うのですが、もし余裕があれば、

4、あえてこの「中心点」を、鬱の一番闇の濃いところ、心の一番痛むところに当てるってことやってみてください。すると、ホースで、「鬱」を吸入しながら、それを、覚めた気づきに変容させていく、変換装置みたいなものができて、鬱の闇がどんどん気づきの光に変わっていくのを、感じられるかもしれません。

闇って、今この瞬間に集中した、自覚に触れると、エネルギーとして再利用できるのですよ!

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