2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。
会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。
もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。
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*今回使用したテキスト***
紫の本にしかない、テキスト本文2章1節の8~12段落目。ここをクリックすると私のこの節の試訳がでてきます。この該当する箇所を参照してください。
参考箇所として、青の本にもあるテキスト17章1節 空想を真理のもとに運ぶ(紫の本も同じ) に中心に触れながら、お話しさせていただいています。
*予告編***
今回のテーマは、スピリチュアリティの所有です。
投影と防衛、自己流救済計画の幻想の中にいない限り、そんなの全然必要ないし、また、不可能であること、これを、火を見るよりも明らかに、クリスタルクリアに、理解することができたらって思ってます。
「私は、スピリチュアルな力をいっぱい所有しているぞ!」と豪語、公言する人は、今時、そんなにいないかもしれませんが、
知らず知らずのうちに、スピリチュアリティの所有が可能だって前提で動いてることって、結構たくさん、ある気がしてます。その中には、集合意識の中に埋め込まれてるものもあって、あたりまえすぎて、自覚するのも難しかったりします。
*
たとえば、自分はなぜコースを学んでいるのか? 自問自答してみてください。
スピリチュアルな力、スピリチュアルな性質を所有している、スピリチュアルな人になりたい。それを使ってやりたいことがある(それがどんなに利他的なことであれ)・・・といった前提、見つかりませんか?
「私は悟りたい(癒されたい、目覚めたい・・・・)」という思いがあるとき、
そこに、悟りや目覚めや癒しを、まるで、所有できたり、所有できなかったりする「モノ」、しかも、希少な「モノ」のように扱う態度、混じってないでしょうか?
あるいは、ある時、素晴らしい体験をした。よく言われる一瞥体験ですね。あるいはそこまでいかなくても、瞑想や祈りの中で、至福や無条件の愛を味わった。
それはいいのですが、その後、それが「失われてしまった」と嘆いたり、「あれをもう一度!」って奮闘したりなんてしたこと、ありませんか?
まるでそれがあったりなかったりするモノであるかのように。
この彷徨いからの出口は、
そんなふうに、「モノ」として、体験を、あるいは精神状態を扱う態度を、一切合切手放して、
空っぽになるところにあります!
*
分離のメガネが見せてる、この世界の中には、問題がいろいろ見えます。このメガネをかけたまま、ここに見える問題のあれこれを解決して、
この世界のストーリー内での「成功」とか、「リベンジ」とか、
あるいは空想して思い描いたストーリーに「ハッピーエンド」をもたらすために、ス
ピリチュアルな力を切り札、最終兵器のようなモノとして使おうって、思ってないですか?
分離のメガネをかけてる限り、あらゆるものは、所有の対象になるモノとして映るし、
実際、そんな風に扱いたくなってしまいますよね。
癒しがうまくいかない時って、だいたいこの手の前提が、入り込んでます。
癒しを、所有の対象になるモノのように扱ってる。だから、結果を気にしますよね。あるいは、自分にはその資格があるか、自問自答したりします。たとえば、コースの勉強、ワークブックレッスンも、さぼってばかり。毎日エゴエゴしてる私に、できるはずがないって最初から諦めていたり。
そんなふうに、所有できたりできなかったりする、希少なモノのように癒しを扱ってもうまくいかないです。
私たち、たとえば、空気を所有しようと思わないですよね。全方位、空気だから。癒しの力もそうなんですよ。全方位、癒しの力。全てが癒しの力。神の子としての私たちは、癒しの中で生きてる。神の子の生得権利として、当然癒されるわけです。その現実、リアリティ、実相を受け入れるってだけの話です。
*
スピリチュアリティに関して、イニシアティブをとって、発信したり、活動したり既に始めた方が、陥りがちなケースもあります。
たとえば、私はスピリチュアルな力が足りないので人が集まらない。あるいは、高まってきたので、人が集まるとか。こんなに人が癒されてるとか。それでプライドを感じたり。
あるいは、同じようなことをしている人と比較して、優越感を持ったり、劣等感を持ったり、競争心を抱いたり。私のところでは、癒されなかった。でも、誰かのところで癒された・・・みたいな話を聞くと、戦々恐々としたり。
まるでスピリチュアルな力を、自分が所有しているかのように考えるエラーをおかしてるわけですね!
ここで思い出すのは、最近、ちょっと滞在した北海道の東川町のことです。北海道で一番高い山、旭岳の麓に町が広がっていて、地下水がとてもゆたかで、泉がいろんなとこから湧いてるし、どんなとこでも、ちょっと掘れば、とびっきりおいしくて安全な井戸水が汲める町です。そんなこともあって、この町は、水道システムがない。水道料金もいらない町です。
もしこの町に住んでるのに、「水は希少なので、溜め込んで、所有して、必要な人に分けてるんだ」と、家にペットボトル入りの水をいっぱい積み上げている人がいたら、「頭おかしいんじゃないの?」って思いますよね。
スピリチュアリティを所有しなきゃいけないって発想を持つこと自体、これに似てると思います。東川町の全ての人が、家に井戸を持ってるのと同じように、スピリチュアリティは、誰の中からも豊かに湧き出てるわけですから。
でも、この町に、水が見えないメガネ、水の代わりに砂漠が見えるメガネをかけている人たちがいて、どこからも水が湧いているのに、「水はどこだ」と探してる人たちが、ある程度の人数いれば、話は別ですよね。ペットボトルに詰めた水をいっぱい持ってる人がいたら、そこに行って分けてもらおうとしますよね。
スピリチュアリティが所有できる、あるいは所有する必要があるって考えるのも、これと同じ。
分離のメガネをかけている人たちの間でだけ、通用するジョークみたいなものなのです。
必要なことは、分離のメガネを外す方法を、みんなで共有すること。それだけなんですね。
*
あるいは、この人はスピリチュアルだけど、あの人はスピリチュアルではないとか、
この人のエネルギーはいい、あの人のエネルギーは悪い。
だからこの人たちは避けて、あの人たちと付き合おうとか
そういうジャッジを微妙にしてる自分に、気づいたこと、ないですか?
私とあなたは、私とこの人たちは違う。だって、スピリチュアリティの性質が真逆だもの・・・といった発想で、人を見ることってないですか? まるでスピリチュアリティが、分離、分断できるかのように。
実際、分離のメガネが外せるようになるにつれてわかることは、みんな、100%のスピリチュアリティそのものだってこと。神の子であること。
しかも、それを認めることは、自分自身が100%のスピリチュアリティそのもの、神の子だって認めることと不可分だってことです。だってそれはたった一つしかないし、それを私たち、分かち合ってるのですから。どちらかだけってことは、ありえない。
これが事実、つまり実相です。ただ、これを認めて受け入れている人と、認めること、受け入れることがどうしてもできなくて、幻想の中でぐるぐる回ってるように見えるひとはいるかもしれません。でもそれも、
私たちは、ともに100%のスピリチュアリティ。神の子だ
という事実にフォーカスすればするほど、ほんの些細なことに見えてきます。
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このエラーが集合的になると、スピリチュアルに邪悪な性質を持った(所有した)目に見えない勢力が、攻撃を仕掛けてくる。
それに対して、私たちは、自分を守ったり、応戦できるようになるために、高次元のスピリチュアルな力を身につけて(所有して)、アセンションする必要がある・・・・
といったストーリーに心奪われることもあるかもしれません。
そういう時には、まず、この熱り立たちの興奮の中にあるおそれを実相の優しさの中で、一つ一つ見つめて、癒していかれるの、おすすめします!
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というわけで、スピリチュアリティが所有できるという前提で、私たちがやってること、あげだすと、キリがないほどです。
共通点は、スピリチュアリティを、スピリチュアリティとして扱わず、
この世界の所有のロジック、で扱おうとする、レベルの混同を犯していることです。
スピリットをエゴの論理で扱おうとしてるといってもいいです。
*
今回も、直前の告知になって申し訳ないのですが、予習したい方に、予習していただきたいことがあるとしたら、
自分には、どんな「スピリチュアリティの所有」の癖があるか
について考えてもらうことです。
丁寧にやってみたいという方は、
ステップ1:スピリチュアリティと自分の接点、たとえば、コースの学習とか、この読書会の参加とか、まずはノートに箇条書きしてから、
ステップ2: その後、その一つ一つを読み直しながら、「スピリチュアリティを所有する」態度が混じっていないか、自問自答してみると、いいかもしれません。
上に私が列挙したことも、よろしければ、参考にしてください!
*
痛いところを突かれるような、つらい作業になるかもしれません。でも、もし、この態度がなかったら、ずいぶん、生きやすくなる、生きるのがシンプルで楽になるって思いませんか?
というわけで、
ステップ3:「スピリチュアリティを所有する」態度、混ざってるなって、気づかれたことがあったら、
もしこの癖がなかったら、どんなに楽だろうか
想像してみてください。そしてその後、
ステップ4:どうすれば、この癖が、取り消せるか。聖霊、心の助け手に相談するようにして、自問自答してみてください。気づきがあったら、それもメモしておかれるといいと思います。
*
スピリチュアルな所有癖を取り消すための一つの方法として、私がこれまで実践してきて、その成果に感謝しているものとして、
あらゆるスピリチュアルないとなみから、「私がやっている」、「私がやる人だ」といった感覚を一掃していくことです。
代わりに、私を「通して」、聖霊がやってる。
こんなふうに、発想を転換すると、すべてがどんなに楽になるか、考えてみてください!
おすすめワーク****
1、二つの祈りと、二つの態度の対応について考える
ビデオの中で、またオンラインの会の中で、すっかり言い忘れたのですが(ごめんなさい)、
ビデオの中でも扱ってる、この表の左、「空想を真理のもとに運ぶ」態度が、
参考箇所として以前に扱った、マニュアル編の最後に収録されている『祈りの歌』の「1、真の祈り」で書かれてる、全一性の祈りに対応していて、
右の「真理を空想のもとに運ぶ」態度が、部分を求める祈り、「偶像」を求める祈りに対応していること。
これについて、ちょっと考える時間を持っていただけると、うれしいです。
そんなふうに、これまで学んだことを統合していくって、大切だと思うので!
2、リマインダーメールの中の予告編で紹介した予習ワーク、必要を感じたら、さらに続けてください
3、あらゆる所有に関するエラーの根本をなす「私」の所有の取り消し
あなたが今、していらっしゃる、スピリチュアリティと関わるいとなみ、その学習とか発信から、「私がする」という感覚を、外してみてください。
「私」を主語にして考えるのを、一切やめるんですね。手始めに、私を主語にした言い回しを、言い換えることから始めるといいかもしれません。たとえば、
「私が癒す」→「私を通して、癒しがなされる」
「私が癒される」→「私の中にいつも変わらずある、癒しの力の源泉が開く。それを詰まらせてるエゴを、取り除いてるところ」
そんなふうに、言い換えた時に感じられる気楽さ。
それとくらべて、「私」を主語にして考えるやり方だと、
どうしてもそこにおそれが付きまとうこと(できなかったらどうしようなどなど)。
じっくりと感じ比べる時を持ってみてください。
4、「私」を主語にしない瞑想
これは、インスピレーションを感じた方、瞑想の習慣がすでにある方に、特にお勧めするワークです。
「私が」瞑想する(「私、変わったかな?」「成果は出たかな?」といった思いとセット)
って思ってる限り、実相の広がりに出ていくことができません。
瞑想に「私がやってる」感覚がまだあるな、って思われる方、ためしにこんな瞑想を試みてみてください。
1、ハートにフォーカスしながら、「愛が愛を愛してる」(愛が自分の愛に気づきながら、ますます愛を膨らませている循環の中にいる感じです)様子を感じてみてください。
「私が愛している」のではなくて、愛が愛を愛している。私はそれが起こる場、空間に過ぎません。
そうしながら、ハートのあたりで感じられる愛、静かに深まっていく愛を、ゆったり味わってみてください。
2、その後、今度は眉間にフォーカスしながら、「気づきが気づきに気づいてる」様子を感じてみてください。
「私が気づいている」のではなくて、気づきが気づきに気づく。私はそれが起こる場、空間にすぎません。
そうしながら、額のあたりに感じられる爽やかさ、クリアさ、冴え渡った感じ、新らしさを、ゆったり味わってみてください。
3、1と2を同時にやってみます。ハートのあたりに感じられる愛と、額のあたりに感じられるクリアさが一つに溶け合っていくのを感じてください。
4、その溶け合った感じを感じながら、そのさらに内側に入って、絶対的な静けさの中に沈み込みます。
ビデオの中でもご紹介した、「止まる」ってことをやるんですね。
「静かにして、私が神であることを知りなさい」(箴言46−10)という聖書の文句や、
「主よ、私はここにいます」Here I am, Lord. というビルの祈りを使われてもいいかもしれません。
