ヘレンのノート版ACIM読書会

ヘレンのノート版ACIM読書会 10回目 溢れる愛を、キリストコントロールにゆだねる

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2023年9月に始まって今も続いているヘレンのノート版ACIM読書会の内容のあらましで、会の前後にみなさんにメールした予告編や、学習内容を定着するワークを、ご紹介しています。

会そのもののビデオは、今も、1本1000円、5本以上そろっての購入だと1本500円でシェアしています。

もしビデオを観られることにもご興味ある方がいらしたら、堀田真紀子(mhorita*gmail.com *に@を入れてください)まで、ご連絡ください。

ヘレンのノート版ACIM読書会 これまでのタイトルの全て一覧できる目次のページはこちらからお入りください。

*今回使用したテキスト***

今回の第9回目は、紫の本の Cameo Essay 9と、テキスト本文1章、奇跡の原理43(青の本では42)の1~4段落目と奇跡の原理42(青の本では41)を中心に扱いながらお話しさせていただいています。

テキストは、ここをクリックして、出てきた文書の該当箇所をみてください。

*予告編****

まずは、ここまでに出てきた、重要な用語の定義をまとめてみましょう。

「罪」とは愛の不在。

「贖罪」とは、愛が不在な心に、愛を受け入れること。

「奇跡」とは、贖罪を受け入れ、心に愛が溢れたときにの、癒された感じと、

その際、自然に起こる知覚の変化

そこから自然に促される私たちありよう、振る舞い、行動と、

それが、周りに広がり、分かち合われていく様子全体をさす。

このコースは、「奇跡」を引き起こす達人、ミラクルワーカーになるためのコースです。

「奇跡」の引き金を引くにはどうすればいいのでしょう?

それについて、前回に引き続き、今回扱われる箇所で、特に強調される内容を一言で言うと、

余計なことを一切しない

ってことですね!

前回は、行動ではなく、知覚、モノの見方を変化させるだけなんだってことが強調されました。

知覚を変化させるために必要なのは、愛の不在を愛で満たす、贖罪を受け入れること。

退いて、空っぽになったところに、内から満ちてくる安らかさをたっぷり受け入れること。

うまくういくと心が愛で溢れます。欠乏感が満たされて、癒された感じもします。

それをなんとかして分かち合いたいって、思ってしまいますよね。

今回のテーマは、まさに、その後の注意事項です。

まず言われるのは、あなたの心に今、溢れているのは、実相の愛、本当の愛の源泉からの愛。

だから、そんなに慌てなくても、

すでにこれ、分かち合われてますよ。

あなたが自覚している範囲を遥かに超えて、分かち合われてますよ! 

ってことです。

愛が溢れると、何とかそれを行動で分かち合いたくなるのはやまやま。

それも奇跡の自然な帰結なのだけれど、

そこで、見境なく行動してはならないこと。

見境ない奇跡衝動 indiscriminate miracle impluse に駆り立てられてしまい、

あなたのためにも、みんなのためにも良くないと、

厳しくいましめられます。

なぜでしょう?

行動するには、身体を使います。

身体を使うと、どうしても、身体に染み付いている分離の影響をうけやすくなります。

まず単純に言って、身体って、人から離れてますからね。文字通り「分離」してる。

そこから、身体単位の小さな「私」がついつい抱えがちな罪悪感(人にどう思われるか自意識過剰になったり、人との比較、劣等感、優越感が出たり・・・)、

そんなこんなで、習い性になった分離の信念、欠乏感、無力感、愛されない感じ・・・が出てきやすい状態になります。

その結果、「インスピレーションだ!」「ガイダンスだ!」と言いながら、

実をいうと、その人の浅い潜在意識に詰まった分離の信念のドラマの延長を、ただ、やってるだけ、

その人特有の弱みを防衛して、強がって、ただ、勇んでるだけ・・・・

なんてことに、なりかねません。

そこで受け入れた贖罪は、あくまで本物。

愛の不在が愛で溢れた、その愛はあくまで本物。

でも、それに突き動かされて行動し始めると、途端に

いつのまにか、いつもの分離のドラマに心がハイジャックされるってことが

ざっとこんな具合に、よく起こるわけです。

もちろんそうなると苦しいので、そのたびにゆるしをしながら、軌道修正していくというのも、一つのやり方です。

ただ、シンプルで、もっとその人のためにも、周りの人のためにもなるのは、

贖罪が起こって、心に愛が溢れて、

それを表現したくて、いてもたってもいられなくなったとき、

それにじっと耐えて、しばらく待機して、心の声が明確化するための間をとることじゃないかと思います。

これが、キリストコントロールと呼ばれているものです。

このキリストにコントロールされている感じをつかんでもらうのが、今回の読書会のテーマです。

でも、「キリスト」ってなんでしょう? 人やモノの中に、自分を感じる力。「あなたは私」だって、感じる力が、私たちすべての心に潜んでいます。

それはたとえば、溺れている人を見ると、思わず知らず飛び込んでしまうという形で出るかもしれませんし、人のために何かしながら、自分自身がまず喜びを感じてるって形で意識されるかもしれません。

瞑想中に感じられる、全てを包み込む大きな私が、身体単位の私よりリアルに感じられるにつれて、どんどんこの力が増大していきます。

誰を見ても、何を見ても、そこに「私」が感じられるようになります。

瞬間、瞬間の状況全体を、「私」として感じることができるようになるわけです。

するとそれは、全体を平等に、俯瞰して把握する、一種の知性として働き始めます。

エゴの視点っていつも自己中心的(「身体単位の私」中心的)ですが、

キリストの中にいるとき、私たちは、瞬間瞬間の状況全体を、「私」として感じています。

あたり一面に、根を張っているような感覚です。

この感覚をつかむってことを、今回、やってみましょう。

この感覚が強まると、生きとし生けるもの、サンシップ全体を、我が身のことのように感じるように、同時に把握するってこともできるようになるようです。

そこには、サンシップ全体の救済計画の青写真もあります。

キリストコントロールにまかせるとは、この青写真のコントロールにまかせるってことなんですね。

贖罪が起こる時に私たちが受け入れる「愛」と、「キリストコントロール」を、

私たちが何か物を作るときの「素材」と、その「設計図に」たとえることもできると思います。

物を作るときは、必要な素材を集める必要があります。がそれと同時に、それをどこにどう配分して、どう組み合わせるかといった知性も働かせる必要があります。

つまり設計図、青写真もいる。

私たちの救済計画で言うと、

心が愛に溢れるのは、材料調達段階にあたり、

キリストコントロールは、全体の設計図、青写真を持ってる人に指示を仰ぐプロセスにあたります。

話をもとに戻しましょう。

贖罪が起こり、心が愛に満たされた瞬間、「私の仕事はここまで」と、「私は何もしなくていい」安心感の中で、そこにじっと留まって、

キリストコントロールからの指示が、はっきり心に浮かび上がるまで待つ。

そうしてはじめて行動する。

この習慣をつけるのが今回のテーマです。

キリストコントロールに触れると、分離感にハイジャックされて、ぐらぐら、心が揺れることがなくなります。

100%の確信、自信、完全なコミットメント、献身の中で行動できるようになります。

そうすることで、身体を動かしているときにはつきものの、

欠乏感を、なんとか行動して埋めようとするエゴ駆動が、入る隙間がなくなり、

「身体を罪なく使う」(18章7節8段落目)ことができるようになります。

キリスト意識と合流することで、救済計画の青写真の指示に従うこととならんで

今回復習したいのは、レベルの混同を一掃することですね!

先ほど、贖罪で、愛が溢れた時でさえ、キリストコントロールを受け入れるのをやめると、

そこから促される行動が、防衛にハイジャックされる危険についてお話ししましたが、

それを、別の言葉で言うと、

レベルの混同が微妙にそこに混ざり込んでしまう

ってことですね。

言葉にすると難しくなりがちなレベルの混同ですが、ランプとランプシェードの例えを使うとわかりやすいかもしれません。

ランプシェードは、内側に光が入ると輝くけれど、ランプシェードそのものが輝くわけではありません。

これと全く同じように、

身体は愛で輝いて、愛の道具になることができる。

でも、身体そのものが愛なのではありません。

行動は愛で輝いて、愛の道具になることができる。

でも行動そのものが愛なのではありません。

このことを、心に銘記しておきたいです。

こうしたレベルの混同と並んで、今回、戒められるのは、案内者とゴールを混同しないことです。

これをランプとランプシェードにたとえると、こう言えるかもしれません。

ランプシェードの中には、奥の光まで引っ張ってくれる、光への案内人の姿も見えます。

たとえばイエスがそうです。

でもそれもまた、光そのものと混同しないように、

光への案内人は光そのものではない。私に跪くのはやめて、光の前に跪くようにと、イエス自身が諭します。

それと同じように、

奇跡は、啓示(直接の神体験)への案内をしてくれる体験だけど、

啓示そのものではない

ことも強調されます。

私たちはまだ、イエスのような心の助け手の声を聞き、

奇跡の引き金を引く試みを始めたばかりですが、

レベルの混同に陥って、道に迷わないためにも、

旅全体の見取り図を、今から視野のうちに収めることができればと思います。

今回のおすすめワークは、ビデオでは言い忘れてしまいましたが、

しばらく、身体単位の私を指して、「私」という言葉をなるだけ使わずに、過ごしてみるというの、

おすすめです。

主語抜きで、なるだけ動詞と形容詞だけで、話をするとか。

日本語って主語なしでも話せるので、それもできますものね。

主語がないと、文章にならない英語や他の言葉でも、

天気など自然現象の主語をit にする非人称表現ってありますよね。

It rains  雨が降る

とか。そんな感じで、自然現象だけでなく、人為的な出来事も見るわけです。

その感じを掴むと、

皮膚の境界で囲まれた身体単位のちっぽけな「私」ではなく、

自分が、場全体に広がって、現れては消えていく夢の世界をホストしてる、大きな「私」の感じが、つかめるかもしれません。

そうすると、このビデオの中にもでてくる、全ての中に、自分を感じるワーク、楽~にできるようになります。

予行練習として、ピンときた方、ご興味のある方、ぜひ

たとえば奇跡がいつも共有されて、私がほっとするだけでなく、
たまたま、その時に乗っていた電車の中に偶然居合わせた人も一緒に安らいで見えてくる。

優しい世界がみえますよね。

その時、私の視野に入る全てを、「私」って呼んでも、別に全然構わないって思えてくるかもしれません。

そんな大きな「私」に、「私」の自覚を置くように心がけると、
ものすごい解放がある。癒されるべき私もなくなるわけですから

(それでも「身体単位の私」の残り滓のようなものが、疼いてきたら、ただ淡々と、ホーリースピリットにゆだねればいいだけ)。

もう一つのおすすめワークは、実相だけをみて生きることを目指す一年の一環として、

ビデオでもお話ししていることですが、

奇跡的な心の状態で、24時間いること。

今回は特に、目を開いて普通に生活している時にも、

周りのすべてのもの、出会うすべての人と、根っこで一つにつながっている感じを維持しながら生きるってことですね。

うまくいかなくても、全然大丈夫。ゲーム感覚で楽しんでいただけると、うれしいです。

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