コースを学習して、何がよかったかって尋ねられると、
いろいろ言えると思うのですが、今の私の脳裏にまずひらめくのは、
無駄なことを一切しない、スマートな生き方が身につく!
ってことですね。現金ですが(笑)
精神病院の重篤患者の病棟などにいくと、
それぞれ、いろんなことをぶつぶつ言ったり、叫んだりしている人がいるかもしれません。
ただその一人一人に向かって、「あなたは間違ってる」「そんなこと言わず、こうすべきだ」などと、諭してもきりがないし、仕方がないですよね。
病気を癒すってことに、専念してもらう必要があります。
この世界という巨大な「病院」でも同じことが言えると思います。どう見ても、狂ってる人たちばかりが見える。
でもこちらの「病院」だと、私たち、一人一人を「ただそう」としがちです。
でも、これも、そんなことをしても無駄。コースのティーチングによるとそうなりますよね。
やっぱり病気を癒すことに、専念する必要がある。といっても、この場合、病気なのは、眼に見える人たちではなくて、私たち自身なわけですが(笑)・・・これはバッドニュース。
ただ、この場合の病気はいつも同じ「分離」の病で、
この病に関しては、私たちの中に、凄腕の専門医がいるという、グッドニュースもついてきます。
何が見えても、「世界は狂ってて当たり前、だって病院だもの・・・」と居直りながらも、
でもさっきの一言は傷ついたぞ、この状況は耐え難いぞ」と、その時感じた心の動揺だけを、
ただ、聖霊に、心の助け手にゆだねるというのを、倦まず弛まず繰り返す。
そうすると勝手に、狂って見えた世界の知覚が、だんだん穏やかで、愛に溢れたものに、少しずつでも変貌していきます。
ゆるしですね。
そんな経験を重ねるにつれ、
分離した心を癒すという根本治療を行わず、
分離したまま、分離が見せる現実を、自力で何とかしようともがくのは、とても効率が悪いってことに気づきます。
問題ばかり見せるサングラスをかけたまま、一生懸命問題解決しても、問題は見え続ける。
レベルの混同は、もうやりたくないな・・・って思いますね。
無駄なことを一切しない、スマートな生き方が始まります。
ただ、このレベルの混同のテーマは、これまでも再三再試扱ってきましたので、
今回はそのもっと微妙なバージョン、上級編のレベルの混同の廃止についてお話しできたらなって思ってます。
それは、原因(神)と、原因への案内人、原因からの便りのレベルを混同しないということです。
謙虚さ
ただ、神のみを求める啓示を意識した祈りをはじめると、
毎日、全く新しい、全く違う体験が得られるのに驚かされます。
「これが神だ!」と思った矢先に、全く矛盾するような体験がやってきたりします。
バガヴァット・ギーターの中に、どんな人も、生き写しにとらえることができると豪語する自信満々の肖像画家の話があります。だから、王子クリシュナだって、額縁の中に、生き写しの姿を捉えられるって息巻いて、彼の肖像画を描きはじめるのですが、クリシュナは、捉えたと思った瞬間、いつも違う姿を見せるので、何度描こうと試みても、出来上がった絵はいつも全然、似ていない。それで、絶望して、自殺しようとするんですね。そのとき、賢者が現れて、画家に、額縁に入った鏡をクリシュナの前に置くだけで満足するようにって諭します。そうすると、その鏡の中に、クリシュナの聖性が流れ込んで、鏡が輝き出しはじめます。
神を捉えられる、捉えられたなんて、傲慢なこといっちゃいけない。
私たちが神に対してできる最良のことは、空っぽの鏡になること、だけなんですよ。
あるいは、その聖性が流れる、空っぽの管になることだけ。
管は、自分を通って流れるものを、自分のものにしたり、わかった気になったり、自分の手柄にすることはできません。そんなことをすれば、管はたちまち、詰まってしまうでしょう。
ぜひ、これを流し込んでくださいなんて注文できない。その時々に違うものを、受け取るだけ。
完全な服従、サレンダーです。
何が何だかわからない、でも、しあわせ。
なぜだか全然わからない、全く理解不能なのけれど、
自分の周りの人がやたら自分に感謝してくれる。
とりあえず、神にただ感謝し続けるしかない・・・
そんな日々がはじまります。
依存・執着からも自由でいられる
実は私たちの中にも、クリシュナのように、どんな形にもおさまらない
だから、何にでもなれる、変貌自在、融通無碍な本性が眠っています。
それが眠りから目覚め、生き生き活動しはじめるにつれ、
自分がこの世界の中でたまたま纏うことになった、どんな形にも執着せずに、
着慣れた服を脱ぎ捨てるようにいつでも脱ぎ捨てることができるようになります。
と同時に、たまたま出くわした、どんな素晴らしい形にも依存せずにいられるようになります。
私たちの本性は、無形・無限だからです。
それが眠りから目覚め、生き生き活動し始めるにつれ、
私は自由! って、ものすごい解放感を感じるようになります。
そんなふうに、生きていきたいですか?
でも、形あるものに少しでも依存していたら、それができないんですよ。
この人だったら全てを知ってる。この人を頼りにすれば大丈夫。
この形でできた世界のどこかに絶対正しいもの、絶対の権威を求めたい気持ちを、まだ引きずっていないですか?
コースを読みながら、この本の中に全ての答えがある。これだけやってればいいんだって、他の本を読むのを一切やめました・・・
コースコミュニティは、世界にたくさんあるけど、このコミュニティ、このティーチャーがだったら、絶対正しい、絶対安全・・・と、ちょっと党派的になってる。
なんとなく、覚えがないですか?
これも、実はこのバージョンの一つなんですよ。
あなたの中の無形・無限の本性を狭いところに閉じ込めて、窒息させています。
「通りぬけて」through の感覚
そんなこといったら、学習もできない! 何で学習してるの? って言われそうですね。
正しい方向性を知ることは、必要だからです。
禅語に、「指を見て月を見ず」ってありますよね。
多くの人は、月そのものは見ず、月をさす指を見て、安心しちゃってる。
真理そのものではなく、それを指しているだけの言葉、頭の理解だけで安心して止まってることのたとえです。
真理の体験が深まり、「月」を直接見ることができるようになるにつれ、
どんなに「正しい」内容でも、真理そのものの生き生きとした生命、よろこび、安らぎ、愛・・・と比べると、
それを指す言葉は干からびた灰色のものに感じられてきます。
そこで止まって、満足してる人は、檻の中にすすんでい続けてるように感じられてきます。
これは別に言葉について言えるだけでなく、
真理を体現していると言われる「本」や「人」や「コミュニティ」を手に入れたり、それに依存したり、そこに属したりしただけで、安心するというのも、これと全く同じ、その一バージョンだってのも、見えてきます。
とはいえ、方向性は大事
ただ、指がないと、月がどっちの方向にあるかがわかりませんよね。
月がこっちの方向にあるよって正確に教えてくれるという点で、指も、重要なわけです。
ただそこをゴールにして、指のところに来て安心して、そこに常住しちゃって動かなくなったりすると、ダメってだけです。
指は、「通り抜けて」いくためのものです。
形あるものは、すべて、こっちの先に真理があるよって教えてくれる道しるべ、真理そのものではないんです。真理は、無形で無限だからです。
ありがとうって感謝しながらも、そこを「通り抜けていく」ためのものなんだ
それを忘れなければ、大丈夫。
いくら関わっても、あなたの中の無形・無限の本性は、檻に閉じ込めたりはしません。
たとえば、ワークブックレッスンを1日欠かさずやる、と言うのは形の世界のこと。この形を金科玉条にして、貫いたからといって、何か起こるという保証は全然ないと思うのですが、
ただレッスンをやりながら、毎回、そこから深い瞑想や祈りに入って、その沈黙の時間を大切にしたり、そこで得られたものを、生活の中で、実践するようにする、
つまりそこにある言葉をジャンプ台にして、本当の私、神の子としての私、私の源泉、神に触れて、それを生活に流し込む。
それをやっていたら、確実に、何か起こります!
形あるものはすべて、それを「通って」真理に達する道しるべ
逆に、「これもダメ、あれもダメと思いながら、どこかに究極の真理を体現した人やグループや、本がないか、まだ模索中です」って人もいるかもしれません。
そういう人に言いたいのは、たぶん、どこにいっても、そんなの見つかりませんよ! ってことですね(笑)。
それより、まずは、自分の中の無形無限のもの(=神)に絶えずアクセスする習慣をつける、そしてそこから両手いっぱいの恵みを受け取る・・・また、そこにのみ(形あるものにではなく)、絶対服従するってことを始めてみてください。
そうしたら、全てが、それを「通って」真理に達する道しるべに見えてきます。
通りで偶然すれ違った人の笑顔も、傍で咲いている雑草の花も、電車で偶然みかけた広告の中でふと目にとまった言葉も・・・
「神」がここにも、あそこにもいる・・・ってうるうると何にでも感動できるゆたかな日々がはじまるかもしれません。
イエスの仕事仲間になる
イエス自身も、私自身を崇拝対象に、私自身をゴールにしないようにって、固く戒めてます。
『天国を遠く離れて』の中、邦訳118ページに、ヘレンが見たとても印象的なビジョンの話が出てきます。
教会の祭壇の前に跪いてヘレンが祈っていると、イエスが現れます。ヘレンはイエスに向かって跪こうとしますが、イエスはヘレンの隣でヘレンに並んで跪きます。するとそれまでオルガンを弾いていたビルもやってきて、イエスの隣に跪きます。その後、「祭壇はあなたの内にある」という声がヘレンに聞こえてきて、それを聞くなりヘレンは、泣き崩れます。
「祭壇は、うちにある」というのは、わかりますよね! 自分の中の無形無限のもののみ、神にのみ、絶対服従してください。ってことです。
そのためにも、イエス自身の前に跪いて、イエスを崇拝してはいけないわけです。
もう一つ、このエピソードでいえるのは、そうやって、ヘレンの横にイエスとビルが並んで祭壇に向かって祈ることで、私たちは平等なコラボレーションの仲間。あなたの方へ向かうために助け合う仲間です。
イエスがコースのふしぶしで、私はあなたの兄弟。あなたの仲間なんだ。私を崇拝してはいけないって言っているのは、早く、自立して、私の仕事仲間になってくださいという含みもあるのでよ。
私には仕事仲間がとても必要。いつも大募集している、1日も早く、加わってくれって、
イエスも今、私の耳元でささやいてくれてます!
皆さんもぜひ加わってください!
(写真はうちの猫、この子も「無駄なことを一切しない」ことに関しては、私の師匠。ただ、「スマート」とはお世辞でも言えない。でも寒さには強いかと見えるも、お座布団の間には湯たんぽがしっかり入ってる)
