ゆたかさからはじまる仕事

ナウトピアの仕事は、ギフトに織りなされて・・・

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働くのよろこびの中に現代人の僧院がある?

ナウトピアの仕事は、与えることが受け取ることと区別がつかなくなる、それ自体が報酬になる仕事、やること自体が楽しくてたまらない仕事だって述べた。

それを本当に純粋にやれば、仕事全体をギフトにできる。働くこと自体の中に報酬があるって心底思えたとき、私たちは世界中の誰とも、取引せずに済むからね。

「取引」するのをやめるとき、仕事にまつわるあらゆる自己欺瞞、自己分裂も一掃できる。

たとえば、特に見返りを期待していないので、望む結果を出そうと状況をコントロールしたり、関係する人たちを操る必要もない。あなたのためだと言いながら、自分の利益を考えるような嘘をつく必要もない。本心を隠して仮面を被る、本音と建前を分裂させるといった自己欺瞞とも無縁だ。自他共に対して嘘をつく必要がなくなるので、良心の呵責にさいなまれたり、罪悪感に悩まされたりすることも、ずっと少なくなるだろう。

「褒めてもらいたい」承認願望から、人につくしたり、無理によろこばせることもなくなる。これも心理的な「取引」の一バージョンだって言えるものね。

人をよろこばせようとすることは、私たち日本人の間では、普通、いいことだって思われてる。人によろこんでもらえるのが、本当にうれしいと思う人もいるだろう。でもそれって本当の自分かな?って問い直すのも無駄ではないだろう。ニコニコしてるけれど、つくり笑いになっていないかな? その証拠に、ずいぶんストレスや疲れがたまっていないかな? 本当の自分が喜んでいない限り、そこには仮面があり、本音と建て前の分裂がある。これは日本人のうちとてもたくさんの人たち、いわゆる「いい人」がおちいりがちな、ナウトピアの仕事への最大の障壁だって言えるかもしれない。

それ自体のうちに報酬がある仕事は、一言で言えば、誰にも、何にも「期待」しなくて済む仕事。ということはもちろん、「期待」が裏切られて「幻滅」しなくても済むということ。つまり人の反応や、成否が出るたびに、気持ちがアップダウン一喜一憂する必要もない。心静かに、淡々と、自分の仕事にうちこめる。

シューベルトやゴッホなど、生きてるうちに、自分が作ったものを理解してくれ、報酬をくれる人にほとんど会えなかった芸術家は多い。貶されることの方がずっと多かったひともいる。そんなふうに、先鋭的すぎて、同時代人には、理解され、受け入れられるのにしばらく時間がかかる仕事を、それでも一体、彼らはどうやって続けられたのか、私はずっと不思議だったけれど、今ならわかる。ずばり、仕事そのもののうちによろこびを見出していたから。彼らがそうして仕事をし続けてくれたことに、今やたくさんの人が感謝してる。

つまりそれ自体が報酬だって仕事をしている人、世界中の誰とも取引せずに黙々と与えるだけの仕事ができる人は、一種の隠遁状態に入っていると言えるかもしれない。都市のにぎやかなところで、それどころか世界を駆け回りながら、大勢の人と一緒に、俗世の仕事に打ち込んでいても、もしそれを心から楽しんでいて、「働かせてもらえるだけで、本当に幸せ」って思う人は、実際、僧院に入ってるようなものだって思う。

ナウトピアの仕事の唯一の取引相手とは?

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僧院の比喩は、別の意味でもこの状態にぴったりだ。

誰も褒めてくれない、認めてくれない、それでも倦まず弛まず嬉々として仕事し続けれる。それはなぜだろう?
たった一つのもの、神様、魂、スピリットとだけ取引してるから。私はとりあえず「スピリット」と呼ぶことにするけれど、この言葉に抵抗がある人は、なんでも好きな呼び方をしても構わない。それは内側から湧き上がるよろこび、生命、インスピレーション、ゆたかさの源泉とでもいうべきもの、日常的に、体験されてるものじゃないかって思う。たとえば、別段いいことがあったわけでもなのになんだかうれしくなったこととか、医者や薬のお世話になったわけでもないのに病気がよくなったり、ガリ勉したわけでもないのに、いいアイデアがひらめいたり、財布の中はすっからぴんなのに、なぜか全然不安を感じなくて、心が満ち足りてる・・・そんな経験をした覚えはないだろうか? 一回二回ではなく、しょっちゅう。偶然とはとても思えないくらい、システマティックに、人生の節々で経験してる人もいるかもしれない。そんな人は既に私がここでスピリットと呼ぶものと、既にかなり親しんでる。あるいは「力を抜いてホッと一息深呼吸して、せわしないエゴのドラマから、自分の意識の焦点をちょっとずらすだけで、いつでもそうなるよ!」って気づいた人は、すでに、睦みあってるといってもいかも。

ようするにそれは、この世界にあるどんな外的なもの(形があり、名指せる特定のもの)原因にも拠らず、何かポジティブな心の状態がもたらされるとき、その原因として想定されるもののことだ。お金をもらえるわけでも、褒めてもらえるわけでもないのに、やること自体が楽しくてたまらない、そんな仕事を続けられるのは、そこに絶えず、スピリットがたっぷり流れ込んで、あなたをよろこびや、満ち足りた豊かさの感覚や、インスピレーションで満たしてくれるからだって考えられる。

スピリットとつながるには、いろいろ方法があると思うけれど、やること自体が報酬だって思えるほど、好きで好きでたまらない仕事に打ちこむというのは、その最もパワフルな方法の一つだと思う。本物の僧院に閉じこもるよりずっといいかもしれないほどだ。

ちょっとはじめただけで、スピリットとつながり、憂鬱も吹き飛んで生き生きしてくる、そんな仕事がみつかったら、それはあなたの天職だ。

大学教員時代、学生に、大学院に進んで研究に身を投じるべきかどうか迷ってるって相談をうけるたびに、私は、「職は見つからず、お金にならず、誰も褒めてくれなくても、平気で研究をたのしめるかどうか、考えてみて」と答えていた。「研究で食べていけんぞ」と脅す厳しい言葉のように受け取る人もいたかもしれないけれど、真意は、別のところにあった。もうおわかりだろう。そうした外的な報酬を補って余りあるほど、スピリットの側からのご褒美、つまりはやること自体のよろこびが得られたら、それがあなたの天職に違いないからだ。

別の「人生、山あり谷あり」

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しかし、人生山あり谷あり、アップダウンするのが醍醐味ではないの? それに、見返りを全く期待しないって言っても、実際、どうやって生きていくの? 実は、別の「山あり谷あり」、別の種類の見返りがあるのだ。

イヴァン・イリイチは、近代化の歴史を、「希望」hopeが衰退し、「期待」expectationに座をゆずるプロセスに見た。彼の言う「希望」とは、自然や運命や人など、私たちの生存や幸福を決定的に左右しはするけれど、私たちが完全にコントロールすることは決してできないものの総体に対して、祈るような気持ちで、それが「善」であると「信頼」し、「私たちに贈り物をしてくれる」と、望みをかけること。

しかし近代化が進むにつれて、そんなあてのないことなどしていられない、重要なことはすべて、人間の計画、管理下において、安定供給できるものにしようとした。たとえば蛇口をひねると水やお湯まで、いつでも手に入るところなど、そのいい例だっていえる。

そんなふうに人工的なシステムの中で予測した通りの結果を手に入れることを、イリイチは「期待」が満たされるという言葉で呼んだ。たとえば食べ物が必要ならスーパーやレストランに行き、出したお金に見合う品質のものが手にはいれば、「期待」通りというわけ。

「期待」は、然るべき場所に行ってお金を出せば、それに見合ったサービスや商品というかたちで即座に満たされるけれど、その時私たちがあてにするのは、行政やコマーシャリズムがあらかじめ用意してくれた人工的なシステムの網の目ということになる。つまり、過去に引かれた轍の上を、欲しいものを行き来させるだけ。得られる満足も、予測可能な域からは一歩も出ることはない。

また安定供給してもらえるのはありがたいけれど、その分、依存しがちで、災害などの有事のときに供給がストップすると、パニック状態に陥ることになってしまうのも確か。「期待」されるものへの依存度が高まると、私たちは、だんだん無力な存在になり、サービスや商品の欠陥に目くじらをたてることも多くなります。これに対して、「希望」で生きるほど、私たちは柔軟になり、生きる力は増していく。

「希望」で生きる人は、「期待」で生きる人と違って、「希望」のものを手にできる保証はないし、手にできるとしても、どんな形でそれが実現するかも、前もって予測できないこともそばしば。でも、だからこそ、「万能」ではない、自分と同じように繊細な相手を理解し思いやろうとする気持ちも、湧いてくるし、思った結果が得られなくてもじっと機をうかがいながら待つ忍耐強さも育ってくる。できるだけのことをしたら、あとは手放し、恩寵を待つばかり。思いがかなった時の感謝の気持ちは、私たちを謙虚にしていく。そこから一見「あたりまえ」のことも含め、ものに感謝する力が増し、幸せに生きられるようになる。

ここまでお話しすると、もう気づかれたと思う。さっき語った、広い意味での「取引」は、彼の言葉で言えば「期待」通りのものを手に入れるために私たちがすること。ギブアンドテイクの関係で成り立つものだ。

これに対して、「希望」は、ひたすらギブギブ・・・しあうものの間に生まれるもの。もっと詳しく言えば、その片方は、ひたすらギブギブ・・・する私たち。もう片方には、自然や運命など、少なくとも完全には、私たちが決してコントロールできないもの私たちのコントロールが効かないもがいて、そこから、思いがけぬときに、恩寵のようにギフトをいただくとき、「希望がかなった!」と呼ぶわけだ。たとえば、たとえば蒔いた種が、忘れた頃に発芽して、土を破って可愛らしい芽が顔をのぞかせているのに遭遇して小躍りするのは、「希望」が成就した時のよろこびだ。私の友達に、里山保全をしている人たちがいる。そこに貴重な染色材料になる実を実らせる木がみつかったけれど、ミャマカラスアゲハという特定の蝶がいないと受粉しないので、花が咲くところまではいっても、実を実らせられていない。ではこの蝶を増やそうと、蝶が毛虫の時に食べる柑橘類の木で、その土地に自生できるものを植林したりして、生態系レベルの修復に手を貸した。人間の「期待」通りにはなかなかかない自然を注意深っ観察しながら、手を貸していった甲斐あって、「ミヤマカラスアゲハがいたよ!」と大喜び。と同時にこの蝶以外の生き物も確実に増えて山が賑やかになっていく様子をこちらの部類に属する。あるいは、どうしてもまとまらない作品を完成するためのインスピレーションがひらめいた時のアーティスト、晴れの舞台の成否。大切な人との人間関係が崩れてもうだめだと諦めていたところ、時がたつにつれて仲直りできたときのよろこび。狩猟採集民が、獲物に遭遇したときに感じたよろこびも、「希望」の部類。結果をコントロールしようとする「期待」の領域拡大につれ、「希望」に頼って生きることは確かに少なくなったけれど、自然や、創造性の世界、人間関係の肝心なところ、それどころか人生の肝心なところは、まだまだ「希望」の領域にある。

お金の世界は「期待」の領域と親和性がある。といっても、いつもそうとは限らない。夢をかなえるための資金を得るために、アルバイトするのは、「期待」の下に身を置くことだけど、クラウドファンディングすることにして、人からのギフトを祈るように待つならば、「希望」の中で生きて行く選択をしたっていえる。

インターネットを駆使したりと小道具は様変わりしても、「希望」の本質は、無償で与えられる恩寵に対する祈りと、それが与えられたときの感謝という、太古の時代から変わらずあるもの。そのせいなのか、「希望」がかなったときのよろこびは、全人格を揺さぶるほど深いもので、これと比べたら「期待」通りのものが、「期待」通りに手に入ったよろこびは絶望の別名ではないかと思えるくらい色あせて見える。ギフトエコノミーやクラウドファンディングが静かなブームを巻き起こしているのは、「希望」の中にしか、全人格を揺さぶられるようなよろこびは体験できないことにみんな気付き始めたからなのかもしれない。

都市生活に嫌気がさして野生にもどりたい・・・という衝動に駆られる時、私たちが本当に恋い焦がれているのはもっと「希望」に賭けた生活をしたいってことかもしれない。もしそうだとすれば、「希望」の本質さえわかれば、それは都市のただ中でも体験できる。たとえば働くことそのものの中にある自己報酬的なよろこび。それだけを羅針盤にして、安定した仕事を捨て、転職したり、起業するとき。愛する人を故意によろこばせ人心操作で愛情を勝ち取ろうなんてさもしいことはせずに、ただ誠意だけを見せようとするとき・・・。

「希望」に生きるのは、もちろん賭けに似てる。結果を「期待」通りにコントロールしようとして、握りしめるエゴの手を振りほどき、いわば虚空に身を投げるようなものだからね。けれどその時私たちを受け止めてくれるものがあって、それは善いもの、全体のために働く全体なんだって信頼できれば、恐怖感はなくなる。

「全体のために働く全体」という言葉はちょっと抽象的すぎるかもしれない。具体例をあげよう。

たとえば、蒔いた種が芽を出すには、太陽や水、土壌や微生物など、無数の要素が絡んでくる。その中にはもちろん、私が感知し得ないものもあり、それらが精妙にバランスするために機が満ちる必要もある。つまり、それがどんなに小さな芽であっても、それが芽吹くには、宇宙「全体」が絡んでくる。そのすべてが意味することを、理解するだけじゃなくて、心全体で感じられたら、芽が出た暁には、思わず両手を合わせたくなるだろう。ただ感謝あるばかり。「期待」通りの結果がでるようにプロセス全体をコントロール下に置くなんて傲慢なこと、考えられないと思えるだろう。これこそ、本当の敬虔さだって思う。無神論者でも、「希望」が叶った時の、「全体」の精妙なはからいの不思議さに心打たれたことのある人は、この意味でとっても敬虔な人たちだって言える。

同じように、とても大切な人との関係がうまくいかなくなった。どんなに手を尽くしても、ダメ。そのあと月日が経って、心の傷も癒えて忘れかけていたときに、思いがけず仲直りできることがある。なぜだろう?あのあと自分も、その人もいろんなことがあって変わったせいだろうか? 間にいろんな人が関与してくれたのかもしれない。人間関係の森の生態系が、機が満ちてまた以前のバランスに戻ったのだ。つまり、この場合もすべてを見通すことはとてもできないような「全体」が絡んでくる。

そしてこの「全体」のバランスの成就に、「全体」としての私も、不可分に関わってくる。そう考える時、「希望」がどんな性質をもってるか、もうちょっとはっきりしてくる。

もちろん「期待」通りに物事をコントロールしようとするエゴとしての私は、「希望」が成就するまでの繊細なプロセスには、一歩も近づけない。下手に関与して、その精妙なネットワークを破壊することしかできるかもしれないが・・・。

でも私の生き様の「全体」、どれだけ誠実に生きてるか、スピリットに身を開いて生きているか、つまり誰とも「取引」しなくても、よろこびにあふれて自分の役目を果たし続ける、そんな仕事に身を捧げてるか・・・そうしたことは関わってくると思うんだ。

「希望」の成就という「山」をめざすのがナウトピアの仕事だって言えると思う。そのために、エゴが何かの「期待」抱き、どうしてもこうした結果が得たい・・・そう思うときには、それをスピリットの中に捧げ、「希望」の領域に置く。

エゴレベルで自覚的にできることとしては、それが全体のためになることか、問い直すことぐらいしかない。例えば、エゴレベルの「期待」は、一面的で部分的なことがほとんどで、誰かを、何かを犠牲にする衝突する利害関係の中に入っていく可能性が高い。

もちろんどうすれば、全体のためになる完全なウィンウィン状態ができるか、頭で考えただけでは無理。即座に結論なんて出せないことの方が多いだろう。

そこでスピリットの出番ということになるわけだけど、これについてはまた機をあらためて。

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