スティーブン・コーヴィは9人の息子がいたけれど、そのうち一人が「問題」児。とにかくどこへ行っても、何をやろうとしても、うまく適応できず、おどおど、びくびくして、力を発揮できない。その子を直そうとしてあらゆる方法、手段を尽くしたという。でもうまくいかない。万策尽き果てたと思ったとき、ふと、この子が「問題」だと思ってる自分たちのものの見方の方が問題なんじゃないかってことに気づいたという。で、今度は祈るようにして、その子のありのままを、愛情深く観察しはじめた。すると、すでにいいところ、可能性がそこにたくさんひしめいているのが見えてきた。自分たちができるのは、それがうまく展開できるように邪魔をしないだけ。見守るだけ。そういうふうに、態度を変えると、その子は、どんどん伸び始め、自信たっぷりになり、とっても優秀な子になったとか。
こんなふうに、私たちが「問題」だって思ってることの多くは、私たち自身がそれを知覚する仕方の方に問題があるんじゃないか。私たちはそうやって、わざわざ自分が作り出した問題を、「ああ大変だ」と駆け回って直そうとしながら、無駄なことばかりに時間を費やしてないだろうか。
世の中のほとんどのものが、私たちが本当に生きていくのに必要なものじゃないのも、そのせいではないかしら。もちろんみんな、「あなたの問題解決に役立ちます」と銘打ちながら生まれるのだけれどね。
実際、そんなふうに、問題を問題だって思うことそのものを問うてかかると、ずいぶん、人生、回り道が減る気がする。
「問題」って、「期待」に反しているってことだけど、その「期待」そのものが、かなり一面的だったり病的に肥大しているときているからね。「期待」は、私たちの過去の経験の積み重ね、習い性になってしまったことがあって、そこからできた「現実はかくあるべし」という思いこみを下地にしてできる。規範でがちがちの世界の中を生きてきたら、「お行儀」や「勉強」の「期待」はずいぶん高く設定されるし、便利で快適に暮らすための設備やサービスが揃いに揃った、物質的な意味では「ゆたか」な世界に生きてると、お金をかけさえすれば楽に生活できるって「期待」も、ずいぶん高まるだろう。で、その基準をはずれると、「問題だ!」と断罪されるというわけ。
たとえばさっきの例を使えば、他の子達はみんなこうだった。だからこの子も・・・というふうに。そんな一方的な「期待」が裏切られたせいで、「問題」だって言っているに過ぎない。唯一、現に実在する「今」、ここにあること、起こってることには触れてない。それを過去のストーリーの中にねじ伏せ、無理やりあてはめようとしてるにすぎない。「このままだと、将来、大変なことになる!」みたいな心配が次々とわいてくる。でもそれも、過去の学習に基づくそんな決めつけを、未来にあてはめようとしてるってこと。
「期待」とは、つまり、すべて過去と、過去が繰り返すだろうと仮定して、過去を未来にまで投影することからくるもの。そこから外れたから「問題」なんだと思ってるだけ。だとすれば、そこからの抜け道は、「今」。「今」という唯一実在する瞬間に安らぎながら、「ここが問題!」だと決めつける気持ちをすべてカッコに入れて、あたかも初めて見るかのように、彼をあらためて、ゆっくり、じっくり眺めて見るのが一番だ。
この「今」という瞬間、「問題」だって思って来た対象について、あなたが現に何を感じるか。そこに見えるのは、どんな人?
つまり、ナウトピアの中から、もう一度眺めて見る。すると自分がそこに押し付けていたストーリーから外れる、思いもかけない可能性が潜伏して、ひしめいているのが、見えてこないだろうか?
