何か願い事があって、その実現のために努力するときって、どんなにうまくいっているときも、「うまくいかなかったらどうしよう〜」っておそれにつきまとわれてる。これは「祈り」や「イメージング」のようなスピリチュアルな裏技を使うときもそう。というより、物質的な手段や行動、合理的な理由づけで気を紛らわせない分、より純粋に感じられるかもしれない。
もちろんちゃんとうまくいくように、絶対確実な方法を探しまわるよね。だけど、そうすればするほど、「これだけお金と時間を使って、うまくいかなかったら、どうしよう」といったおそれは、ますます増していく。「責任とってよ!」みたいな犠牲者意識すらむくむく湧いてくるかも。
それって、泥の中に足を取られながら、出ようともがくほど、ぬかるみにはまってく様子に似てる。エゴが、おそれを克服しようとしてやるすべての手立ては、防衛か、攻撃。軍拡競争と同じように、おそれから出ようとすればするほど、ますます助長することになりがちなんだ。おそれがあると、願いは叶わない。思考の力が、ネガティブの方に、かなり使われてしまうことになるから。
もちろん、いろんな理由から叶う願いもある。けれど、「今回はうまくいったけど、次回はダメかも」なんて思うかも。つまりおそれそのものは、消えない。ということは、あなたが本当に願っていることは、手に入んなかったってことで、ひとつ片付くとまたひとつというふうに、新たな心配願いが湧いてくるのは時間の問題だ。
というのも、私たちがあれが欲しい、これを実現させたいといろんな願いを「通して」、本当に願っているのは、そうしたおそれがすべて消えていく、安心感。アップダウンのない、心の平和だと思うから。
そんなことが、うすうす感じられてくるにつれ、現実をコントロールしようとして、いろんなことを心配して、うまく行ったとか、行かなかったで、アップダウンを繰り返すのに、ほとほと嫌気がさしてくる。といってももがけばもがくほど、ぬかるみのなかにはまって、動けなくなるエゴの沼の性質にも気づいて、絶望。もうご破算。「助けて!」と叫ぶのが、実はすべてのはじまり!
これまで見えなかったけれど、空から糸が垂れてるのに気づいて、そちらにしがみつく。すると泥の中から脱出できるのに気づく。
スピリットとともに生き始めた瞬間だ。
といってもその糸を伝って「高み」に登るわけではない。むしろ、しがみついたその糸に自分の重みをすべてあずけて、下に下に落ちていく感じ。
その糸は実はとっても丈夫で、絶対に切れない。柔らかくて柔軟。いくらでも伸びるので、安心して、いくらでも、脱力して、自分の重みを、信頼してあずけていく。手足を、胴体のすべてを、あけわたす。その度に、なんともいえない気持ち良さがひろがっていく。ということで、まずは、とにかく甘えてみる。
すると、泥の中でいろんなことを期待しては幻滅した、数々の記憶が押し寄せて来て、
「こんなにつらいことがあったのよ。大変だったの・・・とそのぬかるみの中で、もがいていた時のつらさのありったけを全部打ち明ける。下に下に、それこそ、泥のぬかるみの底まで、落ちていくほど、ぐっと重みをあずける。
でも不思議なことに、泥に触れない。糸から伝わって来る、絶対的な愛のバリアに守られてる感じ。わたしがどんなにすねても、怒っても、泣いても、
「そうかい、そうかい、そんなあなたが、とてもかわいい、本当にかわいい」と、とにかく手放しの、無条件の愛情ばかりが、糸を通して伝わってきて、乾ききってた心をうるおし、満たしていく。
そうこうするうちに、だんだん心が晴れて、からっぽになってくる。
といってもそれは、悟りを目指して高尚になろうと努力したり、一生懸命高みをめざしてのぼったからではない。
むしろ、柔らかく伸び縮みするやさしい糸に、自分の体の重みをすべてあずけて、とことん脱力。甘え切ることができたから。そして、そこから伝わるあまりの愛に心がとけてしまったから。
すっかり安心、満たされてしまったので、あれこれの小さな願い、欲しかったおもちゃなどなどをすっかり忘れて、母親の乳房をくわえたまままどろむ赤ちゃんのように。
ただ、あれこれの願いのすべての奥にあった、本当の願いだけが、今もなお、残ってる。みんなを、すべてを、どれだけ愛しているか、感謝してるか・・・これだけ、全身で表現できさえすれば、あとはもう、どうだっていい。そんな感じだ。
それは、エゴとはまた別の、もうひとつの私の中心の中へと入っていくこと。そこは、私がこれまで抱いた思い、願いのすべてを、まとめて一つのものにする。とてもパワフルな場所なのだけど、とてもやさしい。
「祈る」というより、「願いをそっと、あずける」感じ。それ以上のことを力んでやろうとすると、見えなくなってしまう。
これが本当の祈りだと思うんだ。
この手の祈りは、祈りが終わる頃には、「あら、私、そもそも何のための祈り始めたんだっけ?」と、その願いの内容も忘れてしまっていることも多い。
けれど、不思議なことに、どんな祈りよりも、かなうことが多いようだ。
たとえば、遠い海外の街に行って、街頭で寸劇をやってみたいといった、ばかばかしいような願いでも、それが、人生への、世界への、みんなへの愛と感謝を表現するための道具として役にたち、他の表現と調和するなら、かなえられてしまうかもしれない。
エゴの泥沼の中での祈りと違って、うまくいかなかったらどうしようと、やきもきする間もなく・・・。ふと思い出して、まわりを見渡したら、昔、憧れていたことが、あら、すべて現実になっていた。忘れているうちに、気づかないうちに・・・・そんな感じだ。
エゴ目線で近視眼的に見ると、私の人生、不満に思うこと、いくらでも見つかる。でも、ちょっと視線を引いて、本当の私の中心から、鳥瞰的に眺めると、ほんと、驚くほど、昔考えたことがすべて現実になってるのに気づいて、感謝と敬虔な気持ちに圧倒される。たとえば、自然の中で、アートの中で、ゆったりと、インスピレーションに満たされて暮らすこと。それをともにできる素敵な友達に恵まれること・・・
もちろん、何にもしなくても、魔法のように願いがかなうわけじゃない。
いろんなひらめき、うながし、出会いに答えていかなきゃいけない。
でもそれは自然に起こる。祈りの答えとして、起こる事柄、ひらめく思いを、私たちは見逃しようがない。
すべての思い、すべての願いを、おそれの泥沼から脱して、スピリットの糸にしがみつくチャンスにし続ける限り!
その間ずっと、スピリットの糸をにぎりしめたまま。下には奈落が広がる状況で、宙ぶらりんにぶら下がるこの細い糸だけで、自分が生かされてる。そういう感触で、じっと注意を凝らしながら生き続けている限り!
最初はめまいを感じるかもしれない。でも、慣れるにつれ、この状態にいるのは怖ろしいことというより、無限の愛と慈しみ、満ち足りた感じ、安心感の中で生き続けることだってことも、わかってくる。
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そんなふうに、何か願いが頭をよぎるたびに糸に跳びつく祈りへの誘い、チャンスに変えて生きていく。
すると、人生、糸にしがみつくことしかしていない、これまでにしがみついた糸の数ははかり知れないなんてことになるかも。
でも不思議なことに、煩雑になった気がしない。糸にしがみつく機会が増えれば増えるほど、人生の全体が、一体をなして、シンプルに、美しくまとまってくるのに気づくだろう。
というのも、糸がどんなに増えても、そのすべては、同じ一つの中心、本当のあなたから発しているのに気づくからだ。
祈りの糸の一本一本は、目もあやな、さまざまな「成就のかたち」を、本当のあなたという同じひとつの中心、花芯を取り巻く、一枚一枚の花びらのように表していく。
さまざまな折にあなたが心に抱いた一つ一つの祈りは、花の中心にあるこの本当のあなたのなかで一旦溶かされてしまう。
それが、私たちが、「糸」から伝わって来る幸せのあまり、自分の願いを忘れてしまった瞬間だ。
祈りの心地よさの中で、何を祈っていたのかも忘れてしまうとき、あなたはその中心、本当のあなたの中でまどろんでる。そしてそれは、いつも同じ場所。あなたの本当の我が家だ。
一旦この中心に達した祈りは、しばらくすると、今度はうつくしい花びら一枚一枚のデザインになって、相互に色彩や形のバランスを調節しあいながら、機が満ちれば、花開いていく。相互に無関係だと思われた思いも、その中では関連づけられている。糸にしがみつく前に、エゴの泥沼の中で抱いた夢や思いも、何ひとつ無駄になることはなく、そのデザインの中で生かされてる。
その全体が、あなたの人生を花咲かせていく。
この統一感は、エゴのおそれの泥のぬかるみの中で、願望を追い続ける人たちは、決して知らないものだ。
心配、気苦労に縁取られたエゴの願望を、一つ片付くとまた一つというふうにいくら対処しても、それらが一つの模様にまとまっていくことはない。やることばかりが増え、いろんな思いに心が散り散りになって、人生、バラバラな断片に細分化していくばかりだ。
そんなのとっとと見限って、心のサーカスをはじめよう。
祈りの一つ一つに、自分の存在、重みのすべてをゆだねきろう。
そうして、本当の私の周りに、人生を統合。
多彩で複雑に入り組みながらも、すっきり一つにまとまったデザインの花を、花開かせていこう。
