アートとしての人生

どちらも「ありがとう」の助け合い

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苦しんでる人を見過ごす罪悪感から逃れたいので、助けたいのだけど、

そのうち、「ここまでしか助けられません」という一線が引けなくなり、
「どこまでも依存されて、共倒れすることになったらどうしよう?」とこわくなり、踏み出せず、
たとえば気づかなかったふりをしてやりすごしたことはないですか?

あるいは、助け始めた・・・のはいいけれど、
無意識のうちに、損得勘定をしはじめて、
いつか自分の方を助けてくれるだろうと当てこんだり、

尽くしている感の度合いが上がるにつれ、
次第に、自己犠牲感や疲れや怒りが出てきたことはないですか?
「何でいつも私ばかり!」とか、「本当は、こんなことしてる暇はないんだ!」
と叫びたくなったり!

逆に、人から助けを求めたいのだけど、
今言ったようなことを、相手が心の中で思ってるんじゃないかと思って遠慮してしまったり。

あるいは、優しく助けてくれる人が現れたら、
今度は、その人が本当に自分のことを思ってくれているのか確かめたくなって、
もっともっと甘えたい衝動に駆られたことはないですか?

助けたり、助けられたりするシチュエーションって、本当に罪悪感のたまり場になりがちです。
一見、「いい人」の仮面をかぶったエゴがのさばる格好の場所です(笑)

でも、普段からスピリットのインスピレーションだけに従って生きてると、
その上空に自然に出ることができます。

だからといって、助け合いが必要な状況を無視するわけでは決してありません!

助け、助けられる状況は、もっともっと増えるかもしれません。
外から見ると、罪悪感がモチベーションとしてあるときと、
あまり変わらないように見えるかもしれません。

でも、内側から見ると雲泥の差です。
どう違うかというと、とにかく気持ちいいことかな?

スピリットから喜びが流れてくるので、
助けている側も、うれしくなって
こちらこそ、ありがとうって、いいたくなります。
文字通り、「どういたしまして!」です。
英語で、”Thank you!” とお礼を言われて、
“My pleasure!” 「私の喜びです」と答えることがありますが、その感じです!
スピリットからの喜びが、助ける側にも助けられる側にも、同じように流れこんでくるのです。

与えるることで、できた空白に、スピリットの喜びが流れこんでくる、と言ってもいいかもしれません。
だから、コースでは、「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい」(テキスト6−5ーAー5)と言われてます。

そういうわけで、
与えること=受け取ることと感じられるとき、
与えれば与えるほど増える感じがするとき、
そもそも損得勘定に関する思考が一切停止して、そんなこと忘れてしまっているとき、
つまり、助ける人も、助けられる人も、ともに心から「ありがとう」って言える場所には、
スピリットからのインスピレーションがみなぎっているというわけです!

だからとても気持ちいいです。
助ける側にいるときは、自己犠牲感からくる疲れや怒り知らず、

助けを求める側にあるときも、助け手と一緒にスピリットからの一つの喜びを分かち合ってる感覚と、そこからくる一体感が、
「相手にお世話になってる」罪悪感を圧倒するので、
ただただ、そこには感謝があるばかり。

一つ一つのことを決断する時に、スピリットからのインスピレーションを確かめる習慣は、
最初は面倒に思えるかもしれません。

でも、助け合いがこんなに気持ちよくできるようになるわけですから、
絶対、おすすめです。

実際、私自身、スピリットからのインスピレーションで行動し始めて、
まず最初に気づいたのは、助け手、サポートが、いくらでも集まることでした。

インスピレーションで動いている時、
その人は、スピリットがそこから流れるよろこびの泉のような役を果たします。
それにあやかりたい人が、「お手伝いさせて」と、自然に集まってくるのですね。

それは、自然なリーダーシップの始まりでもあります。
でも、リーダー自身の分離した心身がインスピレーションの源泉というより、
まずはリーダーがつながったスピリットが源泉だということを、はっきりしておかないと、持続可能な共同作業はできないと思います。

つまり、最初は、リーダーが放射しているよろこびにつられて集まった人も、
だんだん、自力で、この源泉につながって、自身がリーダーになっていくわけですね。
本当のリーダーは、あくまで、みんなを通して、流れ出てるスピリットです。

私自身は、もともと面倒臭がりやで、性格的にはどう見ても、リーダーよりフォロアーなのですが、スピリットからのインスピレーションに従って生き始めると、いつの間にか、この手のリーダー役をしているのに気づかされることが多くなりました。

でもそれは、他の人も、スピリットに直につながるまでの、ほんの短期間のリーダー役です。
実際にみんな繋がり始めると、大喜びで、役目をおりています。

ただ、与えれば与えるほど、増えるのは、よろこびや感謝など、
スピリットの、心の領域の話だということも、はっきりさせておく必要があると思います。

物質的なモノは、与えれば、もちろん、減ります。
時間の中で、だんだん、老朽化し、朽ちてもいきます。
身体もそうですね。

だから、この世界の中で、物質的なモノや身体を使って何かをやるときには、
それも踏まえた上で、そこに、どうやって、

「与えれば与えるほど増える」

スピリットを浸しこんでいくかが、

まさに腕の見せ所というわけです。

「心をこめて」物をつくる

というのも、うまい組み合わせ方の一つですね。

そうやってできたモノは、もちろん食べられたり、使用されることで、朽ちていきます。
安全なモノを持続可能に作り続けるためには、
物質的なものの法則も大いに顧慮する必要もあるし、
活動全体を、経済的にうまく維持、管理、経営する必要もあると思います。

でも、そこで、こめられた「心」に感動したり、
「ああ、何て美味しいんだ」とか、「美しいんだ」と思ったことや、
それを手に入れた時に感じたやさしさや、よろこびは、スピリットの法則下で、
増えていきます。

私のパートナーは絵を描き、私は文章を書いて暮らしています。
経済的には慎ましくしか生活できませんが、なるだけ丁寧に手作りされたものに囲まれて暮らすようにしています。
そこに込められた「心」や「美」に感動して、
スピリットの法則に従い、自分もそれを、自然に周りに伝え、放射できるようになること、
「与えれば与えるほど増える」スピリットの流れの中にいることが、
私たちの仕事の本質的な部分を成しているからです。
贅沢に見えますが、どうしても必要なことなのですね。

この世界で暮らしてると、どうしても、「欠如」に遭遇することがあります。
お金が足りない、物資が足らない・・・。
でも、それは、「欠如感」を持つことは全く別のことだと思っています。

「欠如感」には、罪悪感や、恥の感情がつきまといますが、
そういうものは一切なしに、「欠如」を事実をして認めることはできます!

たとえば、私は「森の広場」というシェアハウスのオーナーもやっていますが、
やりくりが大変になってきたら、正直にそれを言って、理解や協力を関係者、住人や友人などに求めます。
状況を隠さず、ありのまま、正直に示すこと、
理解でそれを浸していくことも、
真理というスピリットの側の特性だと思うからです。

逆に助けを求められてるとき、相手がどうも依存症に見え、
「ここまでしか助けられません」という一線が引けなくて、
共倒れしそうになりそうなときは、どうすればいいでしょう?

私は、恐れている人が、目の前にいるときには、
その人が求める助けに応じる前に、
まずは「その心を癒す」のに集中することを心がけています。

「その心を癒す」と言ったのは、
癒すべきは、その人の心であると同時に、
まずはそういう人の姿が目に映る、
自分の心でもあるからです。

やり方はシンプル。インスピレーションの源泉、スピリットにつながるだけです。
それさえできれば、まずは自分が安心し、その安心は、目の前の人に自然に伝染します。

そして具体的にどうすればいいか、その人の求めに応じるべきかなどについては、
インスピレーションがきます。

その結果、「ここまでしか助けられません」という境界線をしっかり引くことになることも、しばしばです。

でも、それで、心が離れることはありません。

逆に、スピリットにつながって、心癒されるステップを踏まず、
エゴが表に出てる状態、つまりおそれが表に出てる状態のままで、
相手の求めに応じてしまうと、共依存的な要素、つきまといがちで、きついです。

助けながらも、相手をいつの間にかコントロールしようとしていて、
期待した反応が得られないと、恩知らずだと罵りたくなったりなどなど、
まあ、大変です。

そんなこともあるので、
どうみても、恐れ動機の行動に、
誰かが協力を求めたり、助けてくれないかと、近づいてきてくれた場合、
私は、まず必要なのは、求めに応じることではなく、
その人を安心させることだと思い
何でも、その時ひらめいた方法で、その心の方のサポートに集中しています。

お互い癒されれば、共倒れになったり、残酷な結果になることは、まずありません!

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