奇跡のコース

痛みの奥にある思いを観察 目につける心の薬、やっと見つかる? 

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私には2〜3年ごとに症状が出る強膜炎、ぶどう膜炎という目の持病があります。
自己免疫が、敵を間違えて、健常細胞を攻撃することで、炎症や腫れ、痛み、視力低下などが現れる免疫疾患です。

今回、症状がではじめたのは、アメリカから、カースティン・バクストン、フランセス・シューというコースの先生をホストする話が本格化した頃。
リトリートが始まる直前あたり最悪の状態になり、終わった後は、緩和してきていました。
すると今度は、フランセスの撮った映画の日本語字幕つけの仕事の校正を手伝うことになり、
その映画を見ることで(それこそ聖霊の強烈な光みなぎる素晴らしい映画だったのですが)、
また悪化してしまいました。

症状が出るタイミングを見るにつれ、
目覚めのプロセスが加速化することに対する抵抗が目に出てるようにしか思えません。
自作自演的な免疫疾患なこともふくめ、
「病は真理に対する防御です」(レッスン169)が、教科書的に当てはまるケースです。

聖霊と合流し、思いの観察をつづけることで、少なくとも昼間、免疫による攻撃は止むようになりました。その代わり、眠ってる間に開始してしまい、真夜中に痛みで目がさめるようになりました。

昼間はうまく抑圧されて隠れている無意識下の思いが、眠ってる間にどうやら浮上してくるようなのですね。でも、その正体を見ようと思っても、いびきと同じで、眠りに落ちてから始まるので、コントロールしようがありません。

それで眠る前に痛み止めの薬を飲むことにしました。一箱、700円くらいでどこでも買える、頭痛薬、「ノーシン ピュア」という商品で、大人2錠とあるところを、1錠飲むだけで、夜の痛みの発作がなくなって、朝の充血もおだやかになります

コースでも、恐れが出るより「魔術」を使えと書いてあるし・・・まあいいかと、ここのところずっとこれに頼りきっていると、薬を切らしているのに、昨日、気づきました。
それで、たまたま街に出る用事があったとしさんにお使いを頼んで買ってきてもらうと、

ほぼ同じ量、同じ値段、同じ効用の別商品を買ってきたのですね。で、とりあえず、それを飲んで寝たのですが、これが、全然、私には効かない。

夜中に、左目の奥を中心に頭の左半分がまた痛くなって、目を覚ましてしまいました。

でも、としさんが「効かない薬」を買ってきたことも含め、聖霊の采配かもしれない。
今夜はとにかく痛みから逃げないで、そこで起こってる思いのすべてを、すべて観察してみようと思いました。

まず気づいたのは、身体を丸めて、息をあらくしながら、身体をくねらせる自分自身に対して、
「うまく痛みを演じているな」と冷静に見ている自分がいること。

実際に痛かったのですが、観察モードに入ると、
自分が痛みを演技してるように感じられてきたのです。

それも、としさんに対して、「私、こんなに苦しんでるのよ、どうしてくれるの!」
と責任追及するように演じたがってる自分が、そこにいるのに気づいたです。

ではどうして、こんな芝居をしてるのか?

さらに、心を観察して気づいたのは、
彼に対してものすごい怒りを感じていること。
なぜこんなに怒ってるのかしら? と思ってまず気づいたのは、
「なぜ、間違った痛み止めを買ってきたの! 全然効かないじゃない!」という思いがそこにあることです。

でも、荒れ狂う怒りを、抑えず、ありのままに荒れ狂うのをゆるしながら、
さらにじっと観察してると、
その奥から、さらにいろんな思いが出てきます。

「あなたはいつも、あてにならない」
「やさしいのだけれど、肝心のところであてにならない」
すると似たようなパターンの体験をこれまで彼と何度かした記憶を思い出しました。

そんな心をさらに観察してると、
今度は、としさんを問わず、とにかく、依存してきたものに、いつも裏切られてきたこと、
それら全体に対する失望。
あらゆる「やさしさ」に対する失望、
偶像全体に対する激しい怒りが出てきて、
それも抑えずに、ありのままに出てくるのをゆるそうとすると、
キリがなくなるほど、どんどん出てきて、
それこそ、心の収容力を超えていて、
頭おかしくなるんじゃないかしらと思うほどに膨らんでいきました。

コースのテキストのどこかにたしか、
エゴは、「神の国」の自己のバージョンをつくろうとして、
エネルギーを投入して、ありとあらゆる手立てをつくして、頑張ってきたのに、
それでもうまくいかないことに対して、
潜在的な怒りを抱いているーー
といったことが書かれた箇所があったと思うのですが、
まさにこの怒りに触れたと思いました。

ただ、この怒りが、そのまま、吹き荒れるままにまかせて、
ただただ観察してると、今度はその奥から、悲しみが湧いてきました。
この悲しみにまとわりついている思いを見ると、
「としさんも、猫も、私より先に死んでしまう」
彼は私より16歳年上だし、猫は人間より寿命が短いのであたりまえ、分かりきったことなのですが、それが悲しみとして痛切に迫ってきました。

どんなに可愛がったり、いい関係を築いても、かたちあるものは、いつか滅びる。

すると、彼や猫を問わず、
私が自分の周りに築き上げてきた「幸福な生活」全体が、
はかない夢が、頓挫して、あとは朽ちていくのを待つばかりの
まるで大きな遊園地の廃墟を眺めているような、
悲しいけれど、滑稽で笑ってしまう、悲喜劇的な気分になってきました。

その瞬間、ひらめいたのは、
「じゃあ、かたちのないものに、すがればいい!」ということです
かたちあるものは、すべてあてにならない、まぼろし。
ならば、かたちのない、神だけ、ただただ、あなただけしかない。
本当に存在するあなただけに、私は全てを捧げて、生きていきます。

そして、感じられてきた光を抱きしめ、光に包みこまれているうちに、
痛みも忘れ、ふたたび眠りに落ちることができました。

朝起きたとき、かすかに余韻のように目の周りの筋肉が引きつっているほか、
痛みはすべて消えていて、すべてが、新鮮な、あかるい光の中で呼吸しているように感じられました。

目の病の痛みを通して、昨晩私がやったのは、
「偶像の手放し」と概念的には一言で片付けられるし、
私も、「こんなの100パーセント理解してるわ!」と思い上がってきたことなのですが、
それと、そこに含まれる怒りや痛みに本当に触れ、感じながら「識る」のは、
本当に、全然、別物なのですね。
まだまだ片鱗に触れただけなのかもしれませんが、

それから、かたちのない、だから「神」ということすら憚かられるほど、
私のそばにいてくれる
神に対する信仰を、
本当に、それしかない、そこで生かされるしかない
溺れる人が藁にすがるような、唯一の選択肢として感じられました。

もう一つ、「偶像」として、そこに自分の幸せが依存しているものとして
自分のまわりにあるものを見るのをやめることは、
それらを冷淡に後にするのとは全然違うことにも気づきました。

「偶像」にすることをやめると、
逆にとってもフレッシュに、はじめて出会うように、会うことができます。
倦怠感のようなものが、消えます。

今朝は、としさんも猫も、愛の反映、神からの贈り物として見えてきて、
ただただ、その存在に感謝して、手を合わせたくなりました。
ただ、聖霊は、道の途上、さまざまな愛の反映をくださるので、
この形が唯一絶対のものではない。
いつか、全然別の場所で、全然別のものに、同じ反映を感じて、手を合わせているかもしれない。
そんなふうに思えるところが、これまでとの違いです。

目の病、これからどうなるか、わかりませんが、
とりあえず、目覚めのための「教材」として使ってもらってることはわかって、うれしいです。
そのうち朽ちていく身体がどうなるかより、
それが一番大切なことですから!

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