奇跡のコース

新たなはじまり

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新たな始まりは偶像を超えて***

ここのところ、「はじまり」をめぐるガイダンスがふんだんに私のところに来ています。たとえば、北海道でのカースティンさんのイベントが終わるときに、「これははじまりだ」と聖霊に言われた感じがして、みなさんにシェアすると、その場にいたラファエルも、「自分も同じメッセージを受け取った」とのこと。そのあと、葉山のリトリートでは、後半、2人のもと子さんがハウスメイトになったのですが、それぞれ漢字で書くと、初子と始子さんになるんですね。

葉山から北海道に戻ると、リビングミラクルコミュニテイのオンラインリトリートが始まったのですが、そのタイトルもThe New Beginnig。

ここまでシンクロが続くと、「一体何のはじまりなんだろう?」と思ってしまいますね。

そこで、このThe New Beginning というタイトルのオンラインリトリートに参加しながら、思ったことなど、メモしてみました。その中にヒントも、見つかるかもしれないと、思いつつ・・・・

オンラインリトリートの中でまず強調されていたのは、新たなはじまり といっても線の時間の中の「はじまり」ことではないことでした。

むしろ、源泉、ソースという意味でのはじまりで、神から出ては、神に還る。そんな生き方をはじめること。
そうすることで、線の時間を超えていくこと。それが新たなはじまりなんだということです。

つまり、神こそ我が家だってことですが、
その際、気をつけたいのは、
神は形を知らない(テキスト30章3節4段落目)こと。

だから、何らかの形あるものの獲得をモチベーションにした生き方はすべて、「新たな始まり」にはならない。

というわけで、オンラインリトリートでは、偶像の問題について、かなりつきつめていく話がありました。

たとえば、お金や家や車や理想のパートナー、家族や、目標達成や成功、留学するとか、世界を旅するなど、形あるイメージとして思い描かれた夢の生活はすべて、神の代替品、偶像。

ということは、それらを追いかける生き方は、「旧い」生き方であって、「新たな始まり」にはならない。

といっても、世の中のほとんどの人は、偶像を追いかけて生きてますよね。それで満足できるのなら、それでいいのかもしれませんが、

でも、私たちが、本当に、心の底から求めているものは、
無限のもの、すべて、いかなる有限のかたちにも収まらないもの。

でも、どんなに立派に見える偶像も、形があり、有限のものなので、
私たちのこの本当の憧れを満たしてはくれない。
たとえ手に入れることができても、
ただみすぼらしい代替品にすぎなかったってことに、気づかされることになり、
愛も名声も富にも恵まれ、最高の成功を収めているとみんなに思われている人が、実はちっとも幸せではないように見えるのはそのせい。

幸せを求める場所が違っていただけなのですね。
もっともっと、偶像を!
ではなく、
ただ神だけを、無限のものを、すべてだけを求めるように、
心の中へと向き直る。
これが新たな始まりの始まり。

この新たな始まりをこそ、自分は真に望んでるんだと気づくところから、全てが始まるわけです。

学生時代、一時期私は、抽象絵画を見ることと、中世神秘主義者の本を読むこと以外、何にもできなくなったことがありました。
そのときに私がとりつかれていたのも、形のないもの、言葉で表せないもの、無限のものへの憧憬だったんですね。この世のどんなものも満たしてくれないものへの焼けつくような憧れと、心の中のしずかなしずかな領域へ落ちこんでいく恍惚の中にいたわけで、それに一番近いものを、抽象絵画と神秘主義者の言葉のうちに見つけたわけです。

今思えば、「新たな始まり」にとらえらえていたのですね。

でもそんな気分の中で書いたマイスター・エックハルトについての論文が一通りの成功を収め、研究者の世界へ入り、競争にもまれたりするうちに、すっかり俗世の人になり、この世の欲しいものを追いかける生活が始まってしまいました。

「なんか違うな〜」と思いながらも、何十年も続けていられたのは、中途半端にしか欲しいものを手に入れることができなかったからかな? たとえばエルヴィス・プレスリーのように、愛も富も名声もいやというほど手に入れていたら、偶像の中に幸せは見つからないって、早々に見限れたかも。それでも徐々に疲れが増し、「なんか違う」感が耐えられないくらい高まって、三年ほど前降りて、コースにも出会い、学生時代の感覚を思い出すようになって今に至っています。

欲しがる気持ちをゆるすと、存在が残る******
ただ、すでに、いろんな偶像で欠如感を満たし、形の上で完全性を目指す生き方が習慣として身についてしまってます。打ち間違えたネジを逆向きに回すような取り消しのプロセスがたくさん待っていました。

まずは、何かが欲しいと思うたびに、そこに隠れてる、それなしの「ありのままの今の自分では不完全だ」という思いを暴き出し、見つめていきます。

例えば、今、私はコーヒーが飲みたい。コーヒーさえ飲めば、すっきり目覚めて、集中できる。精神労働の助けが得られると思ってる。もっといけば、光や真理といった神の中でしか求められないものを、コーヒーを飲むという儀式を通して、手に入られると思い込んでる。つまりコーヒーが偶像になってるわけです!

それに気づいては、心の中の神に向き直り、「光も、真理も、たっぷりここにあり、もう、いただいてましたね」と両手をあわせて確認する。その繰り返しです。

その結果、やはりコーヒーを淹れるようにガイドされることもあります。でも、こうやってゆるし、聖霊と合流して、一緒にコーヒーを淹れるのは、コーヒーが単に飲みたくて淹れるのとは、全然、別物です。

しっとり落ち着いて、所作の一つ一つ丁寧に楽しみながら、香りを味わい、香りが家中に広がって、まどろみながら、まだ寝てる家族も包みこみ、愛撫するように「朝だよ」って挨拶してる。そんなふうに、たとえば、全体のつながりの中でこの行為の持つ意味を感じながら、みんなのために淹れることになる。

あるいは、コーヒーが飲みたかったことも忘れて、別のことを始めるようにうながされることもあります。

昔、アメリカのベイエリアに住んでいた時に、当時、バークレーにあった「感謝のカフェ」というカフェに夢中になって、毎日のように通っていたことがありました。ベイエリアはスピリチュアリティのメッカ。文化として普段の生活に溶けこんでいるようなところがあるのですが、このカフェもそうで、メニューはすべてアフォーメーション。たとえば、コーヒーは、「私は目覚めている」、ココナッツ・アイス・スムージーは、「私は美しい」などなど。たとえば、頭がぼーっとしているから、「コーヒー欲しいな」と思ったら、「『私は目覚めている』をお願い」というと、天使のように美しくてしあわせそうなまなざしのウェイターさんが、「はい、あなたは目覚めています」と、アフォーメーションの主語を「私」から「あなた」にすり替えて、注文完了。

美容にいいココナッツをとろうと、ココナッツ・アイス・スムージーを注文したくなったら、「『私は美しい』をお願い」というと、「あなたは美しい」と言い返してくれるわけです。

目覚めてない、美しくなりたい、だからこれが欲しいという欠如感からコーヒーやココナッツ・アイス・スムージーを注文するわけですが、注文に対して、「あなたはすでに目覚めています」「あなたはすでに美しい」と、聖霊の視点で答えてくれるんですね。欲しがる気持ちをゆるした瞬間、聖霊が言ってくることを、ウェイターさんが代弁してくれる。おもしろいカフェでした!

cafe-gratitude-2013-5-11

何かを欲しがる気持ちは、裏返すと、すでに無限に与えられている神の愛のうち、自分が受け取ることを拒絶し続けてきた部分なんですね。ゆるしのプロセスの中でそれに気づいて、を浮き彫りにしてくれるんですね。

「あなたはすでに目覚めています」「あなたはすでに美しい」などと聖霊に言ってもらいながら、それをあらためて受け取り直し、ふたたび愛に満足されてる自分を感じ、癒されることで、ゆるし完了というわけです。

つまり、欲しがる気持ちが首尾よくゆるせると、
「私は〜が欲しい」→「私は〜を持っている」
という<欠けてる→獲得>の問題が、

「私はすでに〜を与えられている」→「私は〜だ」という
<すでに愛され、与えられてる自覚→自分のありよう、存在の自覚>の問題に置き換えられるのですね。

つまり、ゆるすたびに、「私は〜を持っている」の「〜」の中に入れられるような持ち物が増える代わり

天国から、神の愛としてすでにふんだんに与えられてる宝物に、自分自身が満たされているのに気づくわけです。

私は目覚めている、私は光、私は愛、私は美しい、私は満たされている・・・

真に持つとは、あること****
というわけで、「新たな始まり」オンラインリトリートの特にディヴィッドのセッションでは、テキスト30章の偶像の問題とならんで、「聖霊にとっては、持つことはあること」だってこと、しっかり確認させてもらいました。

聖霊とともに生き始めると、外にあるものを獲得して、持ち物を増やす衝動はゆるされ消えていくので、I have….と言えるものはどんどん減っていく。けれど、神の愛を、智識どんどん受け取ることで、I am…..と心底思えるものは、ますますゆたかに、ますます深くなっていく。聖霊の目から見ると、それが、本当の所有なわけです。

6章の5節、聖霊のレッスンの三つの項目の中の一番目、「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい」
などなども、「所有」をそんなふうに考えて初めて、意味をなしますね。

つまり、「所有」とは、神から受け取り直した自分の特性、I am….の…….に入れられるもの。たとえば、目覚め、光、愛、美などなど。

というわけで、私の「新しい始まり」は、とりあえず、
形あるものを追いかけようとする気持ちに気づくたびに、それをゆるして、
無尽蔵の神の愛から、それに相当する特性を、すでにふんだんに与えられていることを受け入れる。

そうして、本当の意味での「所有」を増やしては、そのすべてを、すべての者に贈り続ける。

つまり、このゆたかな、しっとりとした、静かな感覚から、その感覚を感じ続けながら、あらゆることをなす。
ということになりそうです。

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