クリス・カールソン ナウトピア! 序文 

ナウトピアとは仕事の新しい政治についての本だ。市場社会で無視あるいは過小評価されている重要な仕事を成し遂げるために芸術的なアプローチをする万屋、発明家、即興的な精神の持ち主を紹介するものだ。過去20〜30年以上に渡り現れつつある実践にねざしながら、ナウトピアのなす仕事の探は、賃金労働の伝統的なアリーナを超えた、自己開放的な階級政治についての重要な議論の道筋をしめている。

ますます多くの人たちがビジネスの関係につきまとう辱めに気づいて、お金の尺度を拒絶する活動のネットワークを創造している。。散らばったバーチャルなネットワークはインターネットや他のテレコミュニケーションテクノロジーのおかげで成長してきている。価値観やオルタナティブな生活のアレンジメントや経済を介さない関係に基づいた新たな種類の家族が旧い社会の中に成長してきている。ナウトピアンは人間のコミュニティやネットワークやサーキット、流通を創設したり再び活性化させているが、そこから新しいイニシアティブが未来に向かってうまい具合に出現し続けている。これらの新しいコミュニティは、賃金労働者としての彼らの生を超越しようとする人間の努力のマニフェストである。試験的に彼らは市場やお金やビジネスを拒否する文化を受け入れる。私たちがここで出会うナウトピアンたちは、創造的で実験的なやり方でテクノロジーと取り組むことで、社会の方向性をめぐるゲリラ戦争に巻き込まれている。無数の振る舞い方で、人々は彼らの時間やテクニカルなノウハウを、市場から、小さな「不可視の」やり方で横領し、人生を、今、よりよいものにしている。がまた、市場からの純粋な解放運動のために、技術的に、また社会的に、その基礎を築いてもいるのである。これらの実用的な行動は階級および、究極的には階級のない社会という言葉で一番理解され得る。

 資本主義がその地上のすみずみまでをお金と市場のロジックの中へと容赦なく囲い込み、同時に私たち自身の思考そのものを植民地化し、私たちの振る舞いや欲望をコントロールしている傍らで、政治を再定義し、予測不可能な空間を開きつつある新しい実践が出現しているのである。労働組合や正当のような伝統的政治形態をとるかわりに、人々は実用的なプロジェクトのために集まっている。これらの新しい体勢configurationは、特定の職場や地域から現れてくるのはまれである。一人一人の参加者が、彼らのプロジェクトを政治の言葉のみでとらえることも、同じくらいまれである。その一番の理由は、「政治」というアイデアは儀式にすぎぬものに化してしまった風変わりな選挙民主主義の宣伝キャンペーンによってすでに植民地化されているからである。どんな風に生きていくか、何をするか、私たちに必要な者がなんで、どのようにそれを満たすかといった、日常的な問題は、形式にすぎぬ者になった政治を超えたところあるいはその外側にあるものとして理解されがちだ。しかし、これから見ていくようにナウトピアンの活動は深い意味で政治的だ。

 資本やビジネスのおかげだと誤って思われているのと同様の発明の才と創造的な天才が惑星規模のエコロジーに応用されている。進行しつつあるグローバルなカタストロフ(もし私たちが本当に試してみるならばその多くは回避できるものだ)に直面して、ローカルな規模で活動しながら、友達や近所仲間は、近代の生活に決定的なテクノロジカルな基盤を改めてデザインし直している。これらのデザインのし直しは、近代生活の瓦礫を利用した友達間でなされる、ガレージや家の庭を舞台にした開発プログラムを通して成し遂げられる。私たちの現代のコモンは、捨てられた自転車や残り物の食用油や空き地やオープンの帯域幅の形をとる。「真にフリーなマーケット」、反商品、祭りやただのサービスがアンチ経済の想定されるプロダクトである。自由に協力し発明の才を発揮する人々によって一時的に工事中ではあるが。彼らはトップからの制度の変化を待つのではなく、旧い世界のからの中で新しい世界の建設に本腰をいれているのである。
 イデオロギーや宗教とはかかわらず、ほぼあらゆる人類のグループは、相互扶助と自己信頼に深い根を持っている。そのようなサポートのもたらす信頼は、コミュニティの絆を建設するブロックなのである。ブルトーザーに乗った労働者から、宗教的な右翼、エコロジー活動家のネットワークにいたるまでそうだ。人間のクリエィティビティ、恊働およびコミュニティをシステマチックに食いものにする世界を占拠する経済の中で、これらの経済の外にあるつながりを保持し、拡張することは深い反逆になる。生きる基本の必要を満たすために集まることはコミュニティを再び生み出し、人付き合いの新しいタイプのネットワークを形成するのに役立つ。このようにしてつくられた絆や経済の規律の外での恊働の実質的な体験は、戦略的で戦術的な思考のための温床となり、それは資本主義が私たち全員に突きつけてくる日々の対象化に対決することが出来る。

 近代生活の複雑で多層的なヒエラルヒーから出現し続けているこのような新しい社会の分派を描写しようとして沢山の言葉がこれまで書かれ続けてきた。怠け者、ボヘミアン、X世代、Y世代、Z世代、「ノー・カラー」労働者など、さまざまな言葉が、労働者という古いアイデアを押しのけて台頭してきた、この根無し草の、一時的で、部分的なアイデンティティをとらえようと試みている。これらの分派的なアイデンティティは、曖昧な反体制政治のもとにあるより広い自己感覚をさすが、それでも、微妙に就労とまだ結びついている。過去二世紀の過激な労働者たちの運動は、資本主義の職場にしっかりと根ざしていた。事実、そのような意味での労働者は資本主義生産との関係によって定義され続けてきた。今日の過激な衝動は、賃金労働の拘束の外側で発展してきた。『単なる労働者』であることの拘束を逃れようと決意した人たちによって予見され、演ぜられてきたのである。伝統的な理論はこうした努力のことを単なる趣味やライフスタイルの選択として無視する傾向にあり、このような仕事が明確化させている資本主義社会からの脱出の深い軌道を身損ねているのである。

 この本の中で私たちは、生計をたてることと自分固有の全き人間性を、自由に選択した仕事によって部分的にでも表現することの間の亀裂を埋めんと格闘する多岐にわたる人たちと出会う。これらの人々は21世紀の初頭における生の状況に対してしてこれまでとは違う種類の「働く階級」の応答を行うが、それは、彼らの応答が、賃金労働によって規定されたジョブ事の外部にある彼らの「自由な」時間に行われているからだ。ベン・グッズマンは、ロサンジェルスでビデオの編集者としてテレビのコマーシャルをお金を稼ぐためにつくっているが、彼の真の情熱は、バイク・キッチンを恊働出資することへと向かわせた。それはここ10年の間に世界中に出現した、一ダースほどのDIYの自転車修理ショップの一つである。ロビン・ハヴェンスは、公立高校で教師をしているが、サンフランシスコの最も問題の多い地域に無料の放課後自転車修理クラスを提供することをはじめた。彼女は「無法自転車乗り」のサブカルチャーの中心に10年以上おり、自家出版し、この反ビジネス的なDIY文化を実践にうつした。ウイル・ドハ―ティは大きなコンピューター会社からのドロップアウトで、オンライン・ポリシー・グループという政治的に先鋭的なグループのためにコンピューターの資源を無料で提供する組織を立ち上げた。ジェラモ・ペヨットはもとインターネットの起業家だが、自分の時間やノウハウを地域のオルタナティブな食糧システムをたちあげようとする農業や小規模農家を助けるためのオープンソースのソフトウェアプロジェクトをつくるのに捧げた(localharvest.org)。そうこうするうちに、世界中の匿名のプログラマーたちは、いつしか自己管理された社会のバックボーンになるかもしれない、前例のないコミュニケーションのインフラをつくることに導いている複雑な恊働作業に従事している。

 私たちがナウトピアンの運動に見るのは、資本主義の分業の内部での労働者の解放のための闘いではなく(もし私たちがそれに疑いの恩恵を与えるなら、これは労働組合の戦略のためには望みうる最良のものなのではあるが)。そのかわり、私たちは、人々が、雇用不安定な市場の中で強いられた、働き過ぎと分断した生の空虚さに応答するのを見るのである。彼らは単なる労働者であることから解放されようと模索するのだ。少数派とはいえ、その数が増えつつある人々にとって、消費主義と働き過ぎの果てることのない足踏み車は、そこから逃れようと働きかける何かなのである。このようにして多くの人々に取って時間はお金より大切なものになる。物資を手に入れることは、経済至上主義の独裁に従っていくための主要な動機をずっとなしてきた。しかしここそこのポケットの中で、うつろな物質的な豊かさの誘惑と、経済生活によって強いられた規範は崩壊しつつあるのである。

 お金を超えた生へと憧れて、年ごとにおこなわれるバーニングマンの祭りは、本物のつながりと本物の自由を探す数万の道楽者たちをネヴァタ州の砂漠に引きつけている。パートタイムの秘書たち、静態科学者転じて守衛になった人たち、退職した教授、ソーシャルワーカー、アパートの小遣い、機械工、司法扶助、さらにたくさんの職業従事者がこの砂漠に逃れ、コマーシャルから解放された(しかし皮肉なことにお金のかかる)環境の中で、自分たちを作り直し、新しい人間関係をつくるためにやってきている。

 自分でワゴン(と燃料)をつくることで、バイオディーゼルのワゴンに文字通り飛び乗っている数ダースの人たちにも私たちはお目にかかることになるだろう。1990年代中葉にリサイクルされた植物油でなした彼らの旅についてのドキュメンタリー、Fat of Landを撮った5人の助成から始まって、その後バイオ燃料のバスのキャラバンでなされた数百もの旅にいたるまで。クラウディアイザギーレは、挙止をしていて、9.11に対してバークレーのバイオディーゼルコレクティブを恊働創設することで応答した。ここ20〜30年の間に隠れた場所でやり続けられた発明や実験はここ10年ほどの草の根バイオ燃料アクティビズムの中でラディカルに着手され拡張されてきた。政府や主要多国籍企業によって促進されたようなバイオ燃料の盛んに喧伝されたバイオ燃料の「到来」は彼らがリードしたのである。しかしこの物語はまだまだ終わりにはほど遠い。

 都市園芸は、同様に、広域に広まり、大陸中の様々な都市でのガーデニングのリーダーシップの基礎の上にさらわれてきている。移民や貧困層は見捨てられ、いったん産業化されたものの放置された領域を伝統的で発明的な実践によって取り戻し、破滅した風景から食べ物と生命を引き出し、そのプロセスのなかで阿多らしいコミュニティを創造している。ナム・イーステップは西オークランドのシティ・スリッカー・ファームの一員で、その空き地に、最近のグルメの風潮から取り残された地域で新鮮な食べ物を供給するために、ささやかな農産物を育てている。マーク・リーガーは長いことホワイトカラーの労働だったが、カリフォルニアのセントラル・ヴァリーでの子供時代の思い出に基づいて、(彼の自由時間を利用して)、ニュ―ヨークのブルックリンに盛んなコミュニティガーデンの運動を維持、拡張を援助するにいたっている。パム・ピアスは今はなき都市ガーデナーのサンフランシスコ連盟の創設者で、60〜70年代のコミューン潮流の揺籃期に成長した「みんなの食糧システム」の中の重要な人物だ。彼女は草の根の食糧、ガーデニング運動の仕組みを軌道にのせるための非営利的な努力に関与してきており、その跡として100以上の地域の人々によって管理されるパブリックガーデンが、それに関係したコミュニティや政治的なプロセスともども今も残存している。参加してきている。

 この本の中で、私は対面的な仕事の中で、人々が何をしているのか、とりわけ賃金労働の外でなされた自己決定的な仕事について調査してきた。この仕事は階級という言葉、そして究極的には階級のない社会の言葉で最もよく理解され得る。二つの決定的な構成要素は時間と技術の領域である。人々は、彼らのいわゆる「自由な」時間に、仕事の外側で続けられる活動に、従事している。これらの実践は、しばしばとても時間をくうし、骨も折れるが分かち合ったり、互いに協力し合ったりすることを必要とし、新しいコミュニティの始まりをつくる。これは労働者階級の「再構成」をあらわす。ほとんどの参加者はそんな構造をうけいれはしないが。これらの人々は彼ら自身のデザインや選択をなす目的で、テクノロジーをクリエィティブに横領することに従事しているので、これらの活動は、自分のジョブよりもやるべきよりよいことを持っている「労働者」による、賃金労働の監獄を(部分的に)超えることになる。彼らは破棄された皮で働く発明家や鍛冶屋であり、人生の目的を再定義することで、新しい実践を呼びおこしているのである。

 私はこの本が包括的だなんて言い張るつもりはないし、私の比較的小さなインタビュー主体の選択が必ずしも「本物の物語」だと言い張るつもりもない。違う仮定、問題、個人に基づいた別の調査は、むしろ違う洞察をもたらすだろう。しかし私が主張したいのは、私が話しかけた人たちは深い変化を映し出す鏡であることだ。私はみんなが無報酬で、通常恊働しながら、集中的な社会的な恊働のネットワークの中でやっている仕事について尋ねた。その際、いかにしてこれらの実践が市場のロジックから「フリー」なままにとどまっているのか、あるいは商品化され経済的に決定された振る舞いの中に統合されていくかに目をこらした。通常、これらの違った仕事への関与の仕方が接触するところでは、現在進行中の葛藤、あるいはすくなくとも緊張がある。それは驚くべきことあるいはパラドキシカルなことに見えるかもしれない。しかし私の調査によると、賃金労働の強制的な拘束や恣意的なヒエラルヒーから自由になると、みんな一生懸命働くのである。

 私の問いの対象はすべて、人々の日常生活や物理的な場所と緊密に関わるローカルな努力をめぐっている。これらのローカルな事例は、そのロジックが、利潤と略奪のために、人間や自然の生命を疎外し破壊し続ける、永遠に膨張し続け、むさぼり食い続ける世界市場の文脈の中で、意味のない無名のものとして無視されがちだ。しかし地理学者のディヴィット・ハーヴェイが記したように、私たちがナウトピアの中で見いだすような「果敢な個別主義」は、ローカルに始まるが、驚くべきスピードで社会の中を広がり得るのだ。グローバルな生産のための新しい機器がもちろん市場社会の拡張をスピードアップしているが、不可避的にそれは社会の反対論者たちの拡張もスピードアップして、経験や対案を共にできるようにしているのである。私たちが今いる歴史の瞬間は、少なくとも気落ちさせるのと同じくらい、気分をもりたててくれる。

 ユートピアの島(一つの国における社会主義であれ、コープ、コレクティブ、あるいは他のもっと小さな規模の対案的な社会であれ)を創造するために社会から分離独立する努力は資本主義社会の周縁部で、常に花開いてきた。しかしラディカルに異なる生活の仕方が、市場社会の日常生活を補完することが出来るまでに花咲いたことはない。ビジネスや売買や経済的に生き残ることの強迫が、ナウトピアの中で描かれたイニシアティブをとる人たちにも、大変なプレッシャーを行使している。ナウトピアンたち、あるいは経済的に決定された人生の拘束から自分を自由にしたいと決意したあらゆる人は、これまで逃亡しようとしたすべての人たちが直面したのとまったく同じ歴史的な限界に直面する。出現しつつあるクリエィティビティや技術的な発明の才や新しいコミュニティは、過去の自己解放運動を吸収したコーオプテーションや再統合化を超えていくことができるだろうか?この本がこの問いに決定的な答えを与えれるとは思えない。しかしこの運動を歴史的、理論的にフレームに入れることで、それらの運動が出来ることを強化したり、もしかすると、私たち自身がつくる世界へのこれまでの努力よりも先へと進むための彼らのパワーを増すことができればいいと思うのである。